プラトンとプランクトン

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コラム  ため息としてのスピーチ・バルーン――漫画の「吹き出し」鑑賞案内

ため息としてのスピーチ・バルーン――漫画の「吹き出し」鑑賞案内

                                 しだゆい

 

 

 この文章のタイトルは大瀧詠一の「スピーチ・バルーン」という曲のある一節をもとにしている。スピーチ・バルーンとはいわゆる「吹き出し」のこと、吹き出しとはご存知の通り、漫画において人物などの発話や心中の思いを囲む「枠」を指す。それはたいてい風船(バルーン)のような楕円形をしているが、声を荒げているさまを表わすときにはその風船が弾けたようなかたちになったり、あるいは電話口から伝わる声やロボットなどの機械的な発話を囲む際には角ばったものが使われたりと、単に絵と言葉をわける境界として以上のさまざまな役割を担っている。もっとも、その具体的な機能についてはすでに漫画表現論による研究の蓄積があるだろうから、ここで詳しく論じることはしない。むしろ明確な意味とか機能には必ずしもかかわらない、吹き出しの美的な個性のようなものをディレッタントに味わってみようというのが私たちの目論見だ。

 

 吹き出しの醸す味わいにはじめて気づくことになったきっかけは阿部共実のそれであった。たとえば最新作『月曜日の友達』第1集冒頭、ページ一面を抜く大ゴマの、小さく船影を配して凪いだ湾を遠景に鳥瞰される市街の上空、一つの吹き出しがまさしくバルーンのように浮かんでいる。いささかいびつな楕円形をして、底のあたりには短いしっぽのような鋭角の突起がみられるが、これはたいていの吹き出しにみられる構造で、先端の向きによって話者を指し示す機能をもつことは誰もが知るところだ。ところがこのコマには人物がいないので、楕円に囲まれた「おはよう。」の文字が誰のものかはまだわからない。たっぷりと風をはらんだ吹き出しのなか、控えめな級数で組まれた持ち主不明の挨拶が、余白を持て余して所在なさげに佇んでいる。

 ページをめくるとカメラは急降下、中庭側から中学校の校舎をやや俯瞰ぎみに眺める一コマめから、さらに高度を落とし窓越しの教室を正対する角度で切り取る二コマめへ、ページを上下に分割するふたつのコマに今度は五つの吹き出しが、やはり風船のように滞空する。「中学校って朝早くてしんどい。」「もう桜は散っちゃったね」「今日体験部活動いこうよ。」……ここで私たちは、あの市街地上空を漂っていた「おはよう。」が入学したての中学生たちのものだったことを知るのだが、決して無機的ではないが均質さには十分配慮された背景の微細な描線に比して、吹き出しをかたどるペンはあくまでぎこちない。筆圧は一定せず継ぎ目もあきらかであり、楕円をめざすようでいて必ずどこかが角ばっているそれは、ちょうど全ての角をいっぺんに、しかしそれぞれ均一でない頻度で使われた消しゴムのシルエットにも似ている。

 この「角を失った消しゴム」というものにはどこか独特な居住まいがある。嵌まるべき場所からこぼれ落ちてしまった「モノ」の羞恥と頑なさをかたちに込めて、字を消すという自らの機能をいっとき忘却したかのような顔で茫洋とそこにあるそれは、翻って持ち主の、ある繊細な不器用を指し示す痕跡となるのだ。何も考えず片側からひたすら削ってゆけるほどに鷹揚でも、かといって八つの角のどこかは常に角のまま残しておけるほど器用でもなく、そのたびごとに取るものも取りあえない焦りから世界との微かな齟齬を修正しようと試みては、かえってその溝を広げてしまう……だが、それこそまさに阿部共実の描く多くの生のありようではなかっただろうか。

 だから最初に私たちが大気を漂う「風船」に見立てたあの一連の吹き出しも、本当は消しゴムのようにただそこに「置かれて」いたにすぎないのだ。どんなに写実的な絵画であっても別次元のモノ、たとえば消しゴム一つそこに乗せてみるだけでたちまち平面へ退いてゆくのと同じ原理で、阿部共実のたどたどしい吹き出しはその背後の世界をいったん「描かれたもの」へと引き戻し、しかしそうすることで平面のうちに閉じ込められた者たちが本来もつはずの生の立体性をもう一度立ち上げるための媒介となるのである。二次元と三次元の境界であいまいに盛り上がる「モノ」としての吹き出しを通じて、私たちと彼/彼女らの生は、互いに感応しあうことを許される。

 

 一方、やはりもはや風船とはかけ離れながら、それでいて消しゴムのもつモノとしての硬直や厚みからも自由な、志村貴子の吹き出しは貼りつく生きものだ。そのつどの話者の息づかいや声色、その震えまでをも敏く感じ取っては自らのかたちに反映するので、それらは盛んにくびれ、波打ち、思いもよらぬ部分が欠けている。もっとも「くびれ」にかんしては他の漫画家においても、息の長い発話を表示するため複数の吹き出しがつなぎ合わされる際などに広くみられるものだが、基本的には楕円を合成した雪だるまのような単調なかたちがほとんどで、志村貴子ほど生きのいいくびれ方をするものはあまりない。粘性をもった液体の雫がふたつ、ゆっくりと平面を広がり互いに接近してついには溶けあったときのように(ときには溶け合いきれず、小さな空隙が雫どうしをわずかに隔てていることもあるのだが)滑らかなつなぎめ。また話者を指し示す突起のかたちもさまざまで、鋭い角のようなものや、芽のようにわずかな丸みを帯びたもの、虫刺されの腫れのようになだらかなものもあれば、先端が結ばれずそこからしゅうっと息が漏れ出ているものもある。

 だがこのように吹き出しがまるで生きてみえたとしても、その代謝の熱が作品を内側から湿らせるようなことは決してないのだ。その意味で、これらは生きものというよりその影――白い影にすぎないのかもしれない。かつては一つの塊であった鉱物が波の浸食作用によってえぐられ穿たれ、やがてくびれや欠損や突起が有機的なリズムで組み合わさった生きもののようにみえてくることがあるけれど、それと同じように――志村貴子的な世界とは水や大気の代わりに「白」そのものを媒質として満たした空間なのだから――その白の分子が偏って凝集した結晶がいわば偶然に、生命の似姿となったのだとも考えられるだろう。いずれにせよ志村貴子において吹き出しは単に台詞を示すためだけの枠なのではない。それらは作品が担う抒情の有機的な細やかさと無機的な乾燥を同時に、またきわめて象徴的なしかたで表現する一種の文様として刻まれてもいるのだ。

 

 こうして見てゆくと、漫画家が一〇〇人いれば一〇〇通りの画風が存在するのは当然として、見落とされがちだが実は吹き出しにも人それぞれ「吹き出し方」というものがあるということに気づかされる。他にも、たとえば古谷実の場合、その安定感のあるペンタッチ――とりわけ人間の顔がもつ形態的な面白さを読む者に再発見させる確信にみちた描線とは裏腹に、吹き出しの輪郭はつねに戸惑ったような揺らぎを一様に湛えている。それに対して、絵柄と同様の端正なペンタッチで道満晴明が描く吹き出しは、シンプルな楕円を基本として優美な曲線のみで構成され、発言の主を指し示す例の突起すら近年はほとんどみられない(鬼頭莫宏においては同じ傾向がさらに徹底され、いわゆる「突起」と呼べるものは一切なく、どうしても話者を明示する必要がある場合は引用符[″]にも似た二本の短い毛ようなものを書き添えることで突起に代えている)。最近の作家に限ってみても、とりわけ毛筆を用いたpanpanyaの吹き出しなどはごつごつと武骨なシルエットに掠れがちな墨汁も躍動感を醸していて、平衡感覚を絶妙に欠いた背後の作品世界よりもはるかに堅固な実在感を帯びているのが面白い。また今年随一の傑作『映像研には手を出すな!』において大童澄瞳が生み出した「パースのかかった吹き出し」という表現は、これまで必ずしも吹き出しに目を凝らしてはこなかった人々にも新鮮な驚きを与えるものだった。

 

 日常に交わされる言葉には見ることも、またはっきりとは聞くことすらできないあまりに多くのものが纏いついていて、それらが往々にして私たちを疲れさせる。だからたまには言葉や文脈などはあえて置き去りにして、たしかにこの目の前に浮かぶため息のような吹き出しの白をただ虚心に愛でてみるというのもいいのではないかと思う。いささか偏ったセレクトであったことは認めざるをえないけれど、とにかく吹き出しの魅力をその一端でもあなたに伝えることができていれば嬉しい。

 

 

 

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