プラトンとプランクトン

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論文 メランコリーから逸脱して生きていく ―『灯台へ』における母子関係をめぐって①

メランコリーから逸脱して生きていく

―『灯台へ』における母子関係をめぐって①―

 

 

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

 

 

                   栁澤彩華

 

はじめに

 

 ヴァージニア・ウルフが、本作品『灯台へ』の執筆を通じて、自らの両親、特に母親に対する、長きに渡って解決されることがなかった感情の問題と対峙していたことは、とてもよく知られている事実だ。それに関する有名な記述が、彼女がA Sketch of the Pastの中で『灯台へ』について述べた以下の部分である。

 

   It is perfectly true that she obsessed me, in spite of the fact that she died when I was thirteen, until I was forty-four, […] I wrote the book [To the Lighthouse] very quickly; and when it was written, I ceased to be obsessed by my mother. I no longer hear her voice; I do not see her. (A Sketch of the Past, 82)

 

 ウルフは、13歳のときに実母ジュリア・スティーブンを亡くしており、その後、『灯台へ』を執筆した44歳になるまでのおよそ30年間、母に「とり憑かれていた」と述べている。そして作品を完成させるや否や、母の声は消え、姿を見ることもなくなったとの記述から、この小説を執筆することで、ウルフは母の支配からようやく逃れられたと考えられてきた。したがって、これまでこの小説は、ジュリアをラムジー夫人に、ウルフ自身を画家リリーに重ね合わせ、最終的にリリーが絵の完成を果たしたことで、長年の母の呪縛から解放されたと読まれるのがオーソドックスな見解であった。

 はじめに、『灯台へ』のあらすじを簡単に説明する。ラムジー一家は、スコットランドにあるスカイ島の別荘でひと夏を過ごしている。ラムジー氏と夫人には8人の子ども(アンドリュー、ジェイムズ、ジャスパー、ロジャー、プルー、ローズ、ナンシー、キャム)がいる。また、客人として、画家リリー・ブリスコウ、ラムジー氏の弟子のチャールズ・タンズリー、詩人オーガスタス・カーマイケルなどが氏の別荘を訪れている。第一部では、そのような彼らが過ごす平和な一日が描かれているが、第二部にあたる10年の時の経過の中で、家族のうちの3人が亡くなる。第三部で再び集結した家族(ラムジー氏、ジェイムズ、キャム)は、第一部で達成されなかった「灯台行き」を果たす。一方で、画家リリーもまた第一部では完成させられなかった絵画を、第三部で描きあげる。海と陸の場面がほとんど交互に描かれながら、リリーが絵を完成させた瞬間に物語は幕を閉じる。

 『灯台へ』がウルフにとって濃密な母との関係を表現した小説であることは間違いないだろう。ウルフ自身がそのように述べているからだけではなく、この小説は明らかに母ラムジー夫人を中心とした家族の物語となっているからである。しかし、より注意深く見ていくと、上述の見解ほど単純に済ませることが到底できなくなる。『灯台へ』は、同時代の精神分析的言説と不気味なほどの親和性をもった、母子関係を巡るおぞましい記憶の物語であり、母の喪失という普遍的な経験に対する、息子と娘それぞれの感情の物語であることが判明するのだ。

 

 

第一章 メラニー・クライン的「母子関係」

 

 1920年に出版されたThe Times Literary Supplementにおいて、ウルフは、「人間の脳の科学的な側面は、それ〔精神分析〕が興味深く、非常に多くのことを説明していると言う」が、「脳の芸術的な側面、それが退屈なもので、まったくもって重要な意義を持っていないと言う」と述べている(Woolf, Freudian Fiction, 199)。1920年代のウルフは、第一次世界大戦以後、イギリスにおける精神分析受容に重大な役割を果たした「ブルームズベリー・グループ」の中心にいながら、フロイト精神分析一般に対して否定的な態度を貫いていた。『灯台へ』において、ウルフがフロイト理論を意図的に織り込んでいると思われる描写があるが、それらはフロイトに対するシニカルな態度の現れである、と指摘されてきた。頻繁に例に挙げられる箇所を、ここで引用してみる。

 

Had there been an axe handy, a poker, or any weapon that would have gashed a hole in his father’s breast and killed him, there and then, James would have seized it. (To the Lighthouse, 8)

 

 第一部におけるこの冒頭の場面では、母ラムジー夫人とのふたりきりの空間に突然介入する父ラムジー氏に対して、殺してやりたい、と苛烈な憎悪を抱く息子ジェイムズの心的な幻想が描かれている。この、愛する母を所有する父に対して憎悪を抱く息子という構図は、フロイトエディプス・コンプレックス理論になぞらえた描写の典型であると読まれてきた。男児エディプス・コンプレックスとは、シェママとヴァンデルメルシュ編集の『精神分析事典』によると、早くに目覚めた男性性が、父の代わりとなって母親を所有したい欲望を喚起させるため、男児は父を欲望の障害物とみなして強烈な憎悪と敵意を抱く、という幼児期に起こる無意識の葛藤のことを指す。以上の定義を引用場面と並べてみると、ウルフがエディプス理論を念頭に置きながら、ジェイムズの心情を描いたと想像するのは至極自然であろう。したがって従来の研究では、ジェイムズの過剰なまでの父への憎悪は、フロイト並びに精神分析的言説から意図的に距離を保ちつつ、それらを揶揄する効果を持つウルフのフェミニスト的パロディであると読まれてきた。

 この指摘のとおり、引用場面にパロディ的なアイロニーが機能していることは明らかであろう。しかし、私たちはこれを結論めいたこととして読み終わってはならない。なぜなら、この場面には単なるフロイト的パロディには収斂されえない、記憶を巡る母子関係の複雑性と、ウルフ自らが意識の上では否定していた精神分析との相互関連性が見いだされるからである。「はじめに」ですでに触れたように、このテクストを貫く重要な主題とは、父子関係よりも濃密な「母」と子の関係なのである。

 そのためにはまず、第三部「灯台」に至るまでテクストを読み進めていきたい。第三部では、第二部における母ラムジー夫人の死後、父ラムジー氏、娘キャム、息子ジェイムズの三人がボートに乗り、第一部では果たせなかった灯台行きを実行する。ボート上の場面は、三人の直接的な会話は少なく、主に各々の内的独白で構成されているのだが、その中でジェイムズが幼少時代から抱いてきた自らの幻想について言及する箇所がある。

 

He [James] had always kept this old symbol of taking a knife and striking his father to the heart. Only now, as he grew older, and sat staring at his father in an impotent rage, it was not him, that old man reading, whom he wanted to kill, but it was the thing that descended on him—without his knowing it perhaps: that fierce sudden black-winged harpy, with its talons and its beak all cold and hard, that struck and struck at you (he could feel the beak on his bare legs, where it had struck when he was a child) and then made off, and there he was again, an old man, very sad, reading his book. (To the Lighthouse, 199-200)

 

 この場面において決定的に重要なことは、幼少期から抱いていた殺したいほどの憎悪の対象が、実は父ではなかったのではないか、という言及である。ジェイムズは、自分を攻撃してくる憎悪の対象を、黒い翼を持った怪鳥ハルピュイアに例えて説明している。ハルピュイアとは、胴体はハゲタカで強い翼と爪を持つ、ギリシャ神話に出てくる女面の怪物である。ここで、対象が女面の怪物として表象されていることとともに、第一部での夫人の服装が黒のドレスであることや、夫人が二羽の黒いカラスの喧嘩を笑いながら眺めている場面を想起したい。ジェイムズが過剰に恐れ、憎悪した怪鳥ハルピュイアとは、ほかでもない母親ラムジー夫人のイメージではないだろうか。つまり、ジェイムズ自身がかつて恐怖し、憎悪した対象は父ではなく、第一部において幸福と安心を与えられ、欲望の対象に位置していたはずの母であったという、フロイト的ナラティヴに徹底して矛盾した結論が導き出されるのだ。本節冒頭に引用した場面を単なるフロイト的パロディと断定し、ウルフの精神分析への批判的態度の顕在であると読み終えてしまうならば、この言及をどのように位置づけることができるだろうか。わたしたちは、フロイト的ナラティヴに一筋縄では回収されないこの重要な場面をふまえたうえで、幼年時代のジェイムズの幻想、つまり母子一体時の記憶について再解釈する必要性と向き合わなければならない。この議論を始めるにあたり、攻撃的な母とそれへの恐怖、不安という構図から瞬時に連想されるのは、母子関係を巡る幻想に焦点を当てた精神分析家メラニー・クラインである。

 メラニー・クライン(1882-1960)は、オーストリア出身の女性精神分析家で、児童分析を専門とし、フロイト以後の精神分析に多大な影響を与えた人物である。クラインの重要な仕事としてまず挙げるべきは、フロイト的ナラティヴの「父」介入以前の母子一体状態に焦点をあて、生後4~6か月における乳児が母との関係を中心に自らの心的世界を形成していく過程を説明した、2種類の態勢=ポジションである。それが、「妄想―分裂ポジション」と「抑うつ的ポジション」である。このふたつの段階に関して、クライン自身の最終的な結論としては、発達的には「妄想―分裂ポジション」が「抑うつ的ポジション」に先行するものとしている。その順序にしたがって、まずは「妄想―分裂ポジション」の定義から確認したい。

 「妄想―分裂ポジション」とは、最終的にはクラインが1946年に記述した「分裂的機制についての覚書」において確立された概念である。『精神分析事典』を参照すると、その定義は以下のとおりである。

 

最早期の発達段階に起源をもつ特有な対象関係と防衛機制、不安と情動のグループである。つまり部分対象関係であり、スプリッティングや投影同一視を中心にした原始的防衛機制をもち、自己の攻撃性が顕著で迫害不安が主な不安である。(181-182)

 

 基本的な前提として確認しておくべきことは、クライン理論においては、乳児にはすでに生まれつきサディズムが備わっており、それが対象に向かうということである。フロイトサディズムをリビドーの構成要素のひとつであると見なしていたのに対し、クラインは1932年の『児童の精神分析』において、サディズムは出生直後から乳児に賦与されている独立した本能(このサディズムについては、フロイトの死の本能論を採用している。)であるとした。定義で述べられている対象関係とは、母親との関係を指すのだが、乳児は母親の身体を全体的なものとして認知することができない。ゆえに破壊衝動はまず、母親の乳房に対する口愛的サディズムとして機能する。口愛的サディズムとは、乳児が自らに備わる破壊衝動を、原初的な対象である母親の乳房に向け、それを吸う行為(=授乳)として表出するサディズムを指す。その際、乳児は乳房もまた全体として認知できず、自分に満足を与える良い乳房と、欲求不満を引き起こす悪い乳房とに分裂させて認識する。乳児は良い乳房に「生の本能」を投影して愛を向け、口愛的サディズムによってそれを取り入れ、最初の「良い対象」を幻想の中で形成する。逆に悪い乳房に対しては、「死の本能」に基づく攻撃性、破壊的怒りを投影して、同様にそれを内部に取り込み、「悪い対象」を形成する。さらに、それらもまた同一のものであると認知できず、「良い対象」と「悪い対象」が別々の対象であると幻想の中でみなすのである。これが、「妄想―分裂ポジション」における「部分対象関係」である。

 この「妄想―分裂ポジション」において最も重要な概念であるのが、「投影同一視」である。それは、自己の過剰なサディズムによって自己が内側から破壊されないように、自己の破壊性を外部へ投影させて逃す心的な防衛機制のことを指す。『児童の精神分析』において、クラインは、死の本能を外界に逸らすことが、子どもの対象関係に対する関係に影響を与え、そして子どものサディズムの十分な発達を導くと述べている。サディズムが暴走し主体を破壊することから逃れ、「十分な発達」を促すためには、この「投影同一視」が必要不可欠となるのである。上述したように、自己のサディズムが投影される対象は、自分に満足を与えない「悪い対象」である。

 しかし、逆説的なことに、自分自身を守るために働く、この「投影同一視」こそが、乳児の心的世界を不安に満ちた世界へと導くのだ。「悪い対象」に対して、攻撃的な自己の一部を「投影同一視」するために、対象がさらに恐ろしい攻撃的なものとなり自己を破滅に導く不安(クラインはこれを「迫害不安」と呼ぶ)が生じるのである。その迫害不安について、クラインは以下のように述べている。

 

迫害的恐怖によって支配された敵意にみちた内的世界を投影する結果、敵意ある外的世界を―取り入れ‐取り戻す―ことになる。また反対に、ゆがんで敵意にみちた外的世界の取り入れは、敵意にみちた内的世界の投影を強化する。(「分裂的機制についての覚書」、15)

 

 乳児は、自らに備わる攻撃性を外部に投影することによって、破壊から自己を防衛する。だが、破壊性が投影された対象は、さらに恐ろしく攻撃的なものとなり、自己を破壊に導く不安を生じさせる。ゆえに乳児は、内部の攻撃性が投影された外部に対する憎悪とそれからの迫害不安を抱え込む。すなわち、「投影同一視」とは、自己を破壊から救う手段であると同時に、自己の怒りや破壊的な攻撃を外部に投影するがゆえに、攻撃的で威嚇的な敵に満ちた世界を創造してしまう心的過程を指す。クラインにおいて母子一体状態の乳児は、幸福に満たされているどころか、攻撃性とパラノイア的不安に支配された心的世界を有している。

 先ほど述べたように、「妄想―分裂ポジション」は1946年に完成した概念であるが、その初期の先駆的な考えは、ウルフによる『灯台へ』執筆と同時代の1920年代後半に見出すことができる。1929年の「芸術作品および創造的衝動に表れた幼児期不安状況」において、クラインは、自身の攻撃性とそれを向けた対象からの復讐への恐怖心の際限のない悪循環について以下のように述べている。

 

対象が取り入れられる時に、その対象にサディズムからのあらゆる武器を使って加えられる幼児の攻撃は、自分も外界および内在化された対象から同じ種類のサディズム攻撃を被るのではないか、という恐怖を呼び起こす。(256)

 

 ここでの「対象」とは、当然母親を指している。クラインは1929年の段階ですでに、乳児における激しいサディズムと攻撃する母という幻想を発見していたのだ。ここに、母を怪鳥ハルピュイアにたとえ、それに攻撃される恐怖を描いたウルフと、クラインの発見との不気味なまでの同時代性が浮かび上がる。

 再び『灯台へ』のジェイムズの上記の場面に戻ろう。以上のクライン理論をふまえるならば、母を過剰に恐れ、過剰に憎悪するジェイムズの心的世界を解釈することが可能となる。まず、ハルピュイアとは、「妄想―分裂ポジション」における分裂機制が作用して生み出された悪い母親を指している。ハルピュイアが自分を攻撃するという幻想は、「投影同一視」が機能した結果のパラノイア的不安である。つまり、自らの攻撃性を投影した母親が自分を襲うのではないか、という不安から、再度自己の攻撃性を外部=母に投影した結果、過剰なまでにその母を恐れるジェイムズの心的世界が説明可能となる。さらに興味深いことに、ハルピュイアの攻撃性とは、ジェイムズ自身の攻撃性が投影されたものであるから、ジェイムズが過剰に憎悪した対象の正体とは、父でも母でもなく、自らの破壊的な攻撃性の投影であるといえる。このように、『灯台へ』には、ウルフの意図にのみ着目していては決して語ることのできないクライン的なものとの相互関連性が発見される。

 さらに、このスキャンダラスな議論に、ひとつ新たな問題系をつけ加えたい。父への憎悪だと思っていたものは、母への憎悪であり、それもまた実際は、母との濃密な世界で乳児自らが生み出した幻想、自らの攻撃性の外部への投影であった。親子関係をめぐる二重にも三重にもひねられたテクストの記憶の構造が示唆するのは、再外傷化される母子関係のトラウマ性である。外傷とは、「神経症を決定的にする条件となるようにみえるような、主体にとって受け入れることのできない事件」(57)を指し、再外傷化とは、それが再び後になって行われ、主体に外傷を与えることを意味する。

 フロイトが生み出した精神分析的概念のひとつに、「事後性」という心的時間性がある。再び『精神分析事典』を引くと、「事後性」とは、「一定時点でのある体験、印象、記憶痕跡がそれ以後の時点で、新しい体験を得ることや心的な発達や成熟とともに、新しい意味や、新しい心的な作用、影響力を獲得する心的過程」(181)を意味する。この概念が否定しているのは、「主体の生活史に関する精神分析的思考をもっぱら過去から現在への影響のみに注目する直接的決定論に還元するという誤解」(182)であり、つまりフロイトが含意していたのは、「記憶痕跡の形をとって存在する素材は、新たなもろもろの条件によって、折にふれて再体制化され、書き換えを受ける」(182)という遡及性である。より詳細に定義を見ると、フロイトが言う「記憶痕跡の形をとって存在する素材」とは、「それが生きられた瞬間に意味文脈中に完全には統合され得なかったもの」(182)で、「新たなもろもろの条件」とは、「出来事や状況の経験、身体的成熟」(182)であるとされている。すなわち、「事後性」とは、意味が与えられず、痕跡としてしか存在しない過去のある体験が、成熟した現在の立場から新たな意味を与えられ、過去化される心的構造の時間制を指す。

 この文脈で引用個所を再び読むならば、ジェイムズにとって、第一部における外傷的な母子関係(ラカン象徴界以前の言語を持たない世界)の経験が、母ラムジー夫人を喪失した第二部、父ラムジー氏と和解する第三部を経る中で、事後的に解釈され、過去化されたと考えられる。母との記憶の痕跡とは、乳児のパラノイア的不安の対象である、クライン的な「去勢する母」の攻撃性の経験、つまりハルピュイアのくちばしがふくらはぎを突いた「痛み」であり、それは主体にとっての外傷的な経験としてしか過去化されない。第三部においてエディプス・コンプレックスを経て父と和解し、象徴界に参入、言語を獲得した(成熟した)ジェイムズは、言語表象不可能な母との濃密な空間での経験を、「痛み」として再外傷化しているのである。灯台行きを楽しみに待つジェイムズに対し、「晴れにはならんだろう」と言語で彼の期待を裏切り、傷つけた父に対し、母は第三部において怪物として徹底的にイメージ化され、幻想のレベルでジェイムズを襲う。怪物化された母のイメージが第三部になって初めて現れるのは、第一部での母との記憶を第三部において事後的に「再体制化」しているためである。言い換えれば、母との記憶とは表象不可能な世界での出来事であるため、事後的に意味づけることを通じてしか語られえないのである。ここにおいて、表面上はフロイト的ナラティヴに回収されていたジェイムズをめぐる親子関係に、いかにクライン的なものが渦巻いているのかがはっきりと読み取れる。

 しかし、ジェイムズの独白においてより注意深く読まなければならないのは、ハルピュイアの幻想はすぐに姿を消して、後には再び悲しげに本を読む父の姿だけが残されることである。第三部の成熟したジェイムズにとっては、クライン的な幻想、すなわち母との関係は一瞬頭をよぎって過去化されるだけで、すぐさま忘れ去られてしまう。父との和解の進行と並行して、母との関係は抑圧される。ここに、息子ジェイムズは母を喪失(このテクストにおいては二重の意味をもつ)したメランコリーを脱却する存在であることも示唆されている。この論点は第三章でより詳しく議論する。

 このようなテクストの事後性という観点から、改めて全体の構造を眺めると、過去=第一部と現在=第三部を接続する第二部は、単なる時間の経過ではなく、極めて特権的な役割を果たしている可能性が浮上する。わたしたちは、なぜ母との記憶は事後的に書き換えられなければならないのか、第二部ではいったい何が起こったのかという問いと向き合う必要がある。

 第二部「時はゆく」では、第一部と第三部をつなぐ10年の時間経過と出来事(戦争や家族の死)が散文詩的文体で語られている。第一部で家族が集っていた家が荒廃する様や、季節の循環とその中で自然が荒れ狂う描写が散りばめられており、不気味な破壊性が渦巻いている。中でも注目すべきは、以下の場面である。

 

There was the silent apparition of an ashen-coloured ship for instance, come, gone;

There was a purplish stain upon the bland surface of the sea as if something had boiled and bled, invisibly, beneath. This intrusion into a scene calculated to stir the most sublime reflections and lead to the most comfortable conclusions stayed their pacing. It was difficult blandly to overlook them; to abolish their significance in the landscape; to continue, as one walked by the sea, to marvel how beauty outside mirrored beauty within. (To the Lighthouse, 146)

 

 この灰色の船とは、言うまでもなく戦艦を示しており、『灯台へ』が1927年に執筆されたことをふまえるならば、第二部のこの場面は、戦争=第一次世界大戦を暗示していると言える。この戦争表象において、「紫色の染み」が血のように浮かんで見えると記述されている。ここでわたしたちは、紫という色に、ある特権的な意味があったことを思い起こさなければならない。それは、第一部で出現する「紫色の影」である。第一部において、画家リリー・ブリスコウは一枚の絵を描くのだが(第一部においては未完の絵)、その際、ラムジー夫人がジェイムズに本を読んでいるその姿=母子像は「紫色の影」とされていた。したがって、この場面を、戦争の中に母子像が血のように浮かびあがっている描写だと読み解くことは可能ではないだろうか。人間の破壊性の体現とも言える戦争と母子一体状態の乳児の心的世界との共通性ならば、すでにわたしたちは知っている。ここで再びクラインに回帰しなければならない。第二部に渦巻く破壊性(家の荒廃、空っぽ、戦争、割れる鏡)は、抑えきれない自己の破壊性を外界に投影し、敵意に満ちた世界を作り出す、攻撃性と不安に満ちた乳児の「妄想―分裂ポジション」の心的世界と重なるのである。

 この文脈で第二部の解釈をさらに深めるならば、決定的に重要なこととして、ふたりの母の死を指摘したい。ヴィクトリア朝的良妻賢母であるラムジー夫人と、その娘で、結婚直後に子を孕んだプルーの死である。母子一体時の記憶を第一部、エディプス・コンプレックスを経て父のもとへと移行を遂げる現在を第三部と見るならば、それらをつなぐ第二部で起きたこととは、母の死、母の喪失である。

 

[Mr. Ramsay, stumbling along a passage one dark morning, stretched his arms out, but Mrs. Ramsay having died rather suddenly the night before, his arms, though stretched out, remained empty.] (To the Lighthouse, 98)

 

[Prue Ramsay died that summer in some illness connected with childbirth, which was indeed a tragedy, people said.] (To the Lighthouse, 140)

 

 ふたりの母の死を考えるにあたって、まずはふたりの死の直後の場面に注目したい。先に引用した、戦争表象における「人間の外側にある自然の美が、いかに内なる精神の美を映し出しているか、などと感嘆し続けることは、どう考えても困難になってしまった。」という文章に続いて、ここで言及されているのは「鏡」の破壊である。

 

Impatient, despairing yet loth to go (for beauty offers her lures, has her consolations), to pace the beach was impossible; contemplation was unendurable; the mirror was broken. (To the Lighthouse, 146)

 

 「妄想―分裂ポジション」においては、外部の取り入れと内部の投影が相互作用する「投影同一視」が乳児の心的世界で作用していた。つまり、外部とは内部の表象であり、内部とは外部の表象であるため、両者は鏡で映し合わせたような関係性にあった。その「鏡」のモチーフが、第二部の母の死の直後において破壊されたことは、いったい何を意味するのであろうか。ここで、「妄想―分裂ポジション」の次に位置づけられているクラインのもうひとつのポジションである「抑うつ的ポジション」について見ていきたい。

 「抑うつ的ポジション」とは、「躁うつ状態の心因論に関する寄与」(1935)並びに「喪とその躁うつ状態との関係」(1940)において提唱された概念である。クラインは以下のように記述している。

 

「躁鬱状態の心因論に関する寄与」(1935)という論文の中で〔中略〕、私は、赤ん坊の体験する抑うつ感情はまさに離乳期やその前後に頂点に達する、と述べた。これが「抑うつ的態勢」(depressive position)と命名した赤ん坊の心の状態であり、メランコリーの起こり始めの状態であろう、と示唆した。哀惜の対象は母親の乳房であるが、幼児の心の中で乳房とミルクを意味するすべてのもの、すなわち愛情、善良さ、安全感などにわたる。このすべてが失われた、と赤ん坊には感じられるのである。しかも、母親の乳房に向けられた赤ん坊自身には、抑えることのできない貪欲で破壊的な空想と衝動のせいで失われた、と感じられるのである。(「喪とその躁うつ状態との関係」、124)

 

 離乳期やその前後になると乳児は、対象を全体として認知することができるようになるのだが、クラインによると、「対象が全体として愛されるようになるまでは、愛情対象の喪失が全体の喪失として感じられない」ために、「抑うつ的ポジション」においてはじめて、乳児は愛する対象の喪失と、それに伴うメランコリーを経験する。喪失の対象とは当然母であり、その契機は離乳であるとされている。さらに、この喪失経験について乳児は、自分自身のサディズムが母を破壊したと感じ、罪悪感に苛まれるのである。

 「鏡」の破壊の契機はふたりの母の死であった。この母の喪失を、これまで述べてきたように乳児の心的世界における離乳だとみなすならば、「鏡」の破壊が意味するのは、対象を部分的に認識していた「妄想―分裂ポジション」から、全体として認識可能となる「抑うつ的ポジション」への自己形成過程の推移であると考えられる。この「母殺し」によって、子においては、愛する対象を喪失したことによるメランコリーがはじまりを告げる。

 さらにクラインは、「罪悪感」に加えて「抑うつ的ポジション」におけるもうひとつの重要な特徴として、「償い」の感情を挙げている。この概念もまた「芸術作品および創造的衝動に表れた幼児期不安状況」(1929)において、『灯台へ』と同時代的に展開されていたことに着目しつつ、その定義を確認したい。

 

 ここにおいて新たな感情と内的状況が生じてくることになる。すなわち悪い対象としてよい対象に攻撃性を向けていたために、よい対象を傷つけたり死なせたのではないかという喪失感、絶望感、抑うつ、哀惜の感情であり、自分がそれをやってしまったという罪悪感や悔いである。〔中略〕乳児は自分が対象を傷つけたことを受け入れ、それを修復、再建しようと努める。ここに償いの感情が湧いてくる。(『精神分析事典』、480)

 

 上述したように、乳児は離乳によって母の喪失を経験するが、その際に「良い対象」すべてが失われたと感じ、抑うつ的な感情を抱く。さらに、その喪失は自らの破壊性がもたらしたものであると感じるために、罪悪感に苛まれる。そこで、喪失した対象を修復、再建し、償おうとする感情が湧いてくるのである。この償いの感情こそが、「愛におけるそしてまたすべての人間関係における基本的な要素」(クライン「愛、罪そして償い」、83)であるとされており、他者への思いやりや寛容、愛の情動の基盤となっている。また、クラインは、「償いをしたいという願望は、愛する人への関心とその死に対する恐れと密接に結びついているので、今や創造的建設的な形で現れてくる」(クライン「愛、罪そして償い」、113)と、償いと創造性の関連について述べている。

 では、「抑うつ的ポジション」における償いと創造性をめぐる議論と第二部はどのように接続することができるだろうか。第二部の後半とも言える、離乳=母の死の後のテクストを見てみよう。まず、自身の出版した詩集が世間に好評であったことについて、戦争が人々の詩への関心を高めた、というカーマイケル氏の発言がある。また、ミセス・マクナブが、荒廃したラムジー家を掃除し、再建する様子が記述されている。これらについてわたしたちは、前者を文化的創造、後者を物理的創造だと捉えることが可能ではないだろうか。第二部においては、破壊性とともに、喪失した母を修復し、償おうとする運動も駆動しており、両者はまさに乳児の「抑うつ的ポジション」の心的構造と一致している。破壊と喪失、そして償いによって形作られた第二部を経ることによって、物語は第三部=現在を迎えることができるのである。

 以上に述べたクラインの2つのポジションが非常に興味深いのは、その順序もまた、単純に直線的な時間性の上にはないことである。先にも述べたように、クラインは、最終的には「妄想―分裂ポジション」が「抑うつ的ポジション」に先行すると結論付けた。しかし、実際には以下のようにも記述している。

 

妄想―分裂ポジションと抑うつ的ポジションの間を行ったり来たりする変動は、常に生じているし正常な発達の一部分である。したがって、この2つの発達段階の間に

明確な境界線を引くことはできない。しかも前者から後者への移行は徐々に進行する過程であり、この2つのポジションにおける諸現象はしばらくの間ある範囲内で

混在し、相互作用しあう状態を続ける。(「分裂的機制についての覚書」、21)

 

 この引用より、生後4~6か月の乳児の心的世界は、「妄想―分裂ポジション」から「抑うつ的ポジション」への発達段階的な移行というよりはむしろ、それらのダイナミックな相互作用の働きによって形成されていることがわかる。このことを踏まえると、第二部とは、自らの暴力性の投影によって、外部に破壊的世界を生み出す「妄想―分裂ポジション」と、離乳=母の死の後、母を喪失した罪悪感とそれへの償いで満ちた「抑うつ的ポジション」が相互作用し続ける、乳児の心的構造の描写であると考えられる。第二部とは、破壊と償いの繰り返される相互作用によって、つまり憎しみと愛のダイナミズムに駆動されながら、「時はゆく」様子を描いている場面なのである。

 では、母を喪失したジェイムズの罪悪感と償いの感情は、テクストにどのように現れているのだろうか。第三部において、ジェイムズが母について回想する場面がある。

 

She alone spoke the truth; to her alone could he speak it. That was the source of her everlasting attraction for him, perhaps; she was a person to whom one could say what came into one's head. But all the time he thought of her, he was conscious of his father following his thought, surveying it, making it shiver and falter. At last he ceased to think. (To the Lighthouse, 203)

 

 この場面でジェイムズは、唯一真実を語り、自らの心を開くことのできる聖母的イメージとして母を思い出そうとしている。喪失した母を意識的に「思い出す」こともまた創造(想像)的修復であると捉えるならば、第三部におけるこの回想こそ、ジェイムズにとっての母への償いの一形態をなしているのではないだろうか。

 しかし、償いは成功しない。ジェイムズ自身が語っているように、母を思い出し、その喪失を償おうとすると、いつも父ラムジー氏の存在が同時に浮かびあがる。さらに父の存在は、ジェイムズの母への思いを震えさせ、揺さぶる力を持つ。そしてついに、ジェイムズは母について思考することを止めてしまうのである。これを、父の存在が母への償いを妨げていると解釈できないだろうか。第三部において、父との和解とエディプス的移行(母から父へ)が進行するが、それは父と同じ位置、つまり父と同じ性へのジェイムズの自己同一化を意味している。父に従い、父の性位置に自らもつくことによって、欲望の対象を母から別の対象へとずらし、母の喪失から生還することが可能となる。したがって、ジェイムズの償いは父への移行によって、不可能なものとなる。

 だが、ここにおいて本節冒頭で指摘したハルピュイアの幻想が再び重要な意味を持つ。修復しようとする母のイメージが、ハルピュイアとは正反対の優しく慈愛に満ちた母であることは、クライン的な真の母、すなわち攻撃する恐ろしい母像は、意識的に思い出すことが不可能であることを意味する。クライン的な母像は、無意識的に、不意打ち的に主体の頭をよぎるのだ。表面上は、ハルピュイアの幻想はほんの一瞬の出来事にすぎず、母との関係は再び抑圧され、ジェイムズは父への移行を遂げ、母を喪失したメランコリーを脱却する。しかし、その表面的なフロイト的ナラティヴに収斂されえない過剰、クライン的なこの不気味な残余に、償われず、思い出されることもなく、ただ再外傷化される母との関係が垣間見えてしまうのである。

 以上、このテクストを貫く母子関係と記憶の構造について、ウルフの意図したフロイト的ナラティヴの深奥に、いかにクライン的な母子関係との親和性が秘められているかが確認された。しかし、わたしたちは、本当に向き合わなければならない問題にはまだ到達できていない。本稿の冒頭で確認したように、本作品はウルフと母ジュリアの関係、つまり濃密な母娘関係について書かれたテクストであり、わたしたちは「娘」にこそ着目すべきなのである。

 

 

《一次文献》

ヴァージニア・ウルフ灯台へ御輿哲也訳、岩波書店、2004年。

 

《二次文献》

遠藤不比人『死の欲動モダニズム――イギリス戦間期の文学と精神分析慶應義塾大学出版会、2012年。

小此木啓吾精神分析事典』、岩崎学術出版社、2002年。

ヴァージニア・ウルフ「過去のスケッチ」『存在の瞬間』北野民夫、みすず書房、1983年。

ラニー・クライン『児童の精神分析小此木啓吾岩崎徹也訳、誠信書房、1932年。

___.「芸術作品および創造的衝動に表れた幼児期不安状況」(1929)『メラニー・クライン著作集1 子どもの心的発達』西園昌久・牛島定信訳、誠信書房、1983年。

___.「愛、罪そして償い」(1937)『メラニー・クライン著作集3 愛、罪そして償い』西園昌久・牛島定信訳、誠信書房、1983年。

___.「喪とその躁うつ状態との関係」(1940)『メラニー・クライン著作集3 愛、罪そして償い』西園昌久・牛島定信訳、誠信書房、1983年。

___.「分裂的機制についての覚書」(1946)『メラニー・クライン著作集4 妄想的・分

裂的世界』小此木啓吾岩崎徹也訳、誠信書房、1985年。

ロバート・D・ヒンシェルウッド著、衣笠隆幸総監訳『クライン派用語辞典』、誠信書房

2014年。

ロラン・シェママ/ベルナール・ヴァンデルメルシュ著、小出浩之訳『精神分析事典』、弘文堂、2002年。