プラトンとプランクトン

「プラトンとプランクトン」メンバーによるいろとりどりな記事

論文 メランコリーから逸脱して生きていく ―『灯台へ』における母子関係をめぐって②

プラトンプランクトン2号」に掲載した栁澤彩華の力作、ヴァージニア・ウルフ灯台へ』論ネット公開! 一章は①をご参照ください。

 

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

 

 

 

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メランコリーから逸脱して生きていく

―『灯台へ』における母子関係をめぐって②―

 

                 栁澤彩華

 

 

 

第二章 「母の再生産」の継承の否定

 

 本章ではまず、「母の欲望」に対するテクストの両価的な態度について指摘することから始めたい。ウルフの母への感情がアンビヴァレントなものであったのは周知の事実だが、それは本作品においては、母を慕いながらも彼女を裏切り続けるテクストの態度に現れている。具体的には、ラムジー夫人は、娘たちに「母の再生産」を継承させようとする強迫的な欲望を有しており、テクストは表面上それらを奨励する身振りを見せるのだが、その水面下ではそれを拒絶しているということである。

 母に焦点をあてて考えていくにあたり、まずラムジー夫人が作中でどのような女性として表象されているのかを見ていきたい。ラムジー夫人がまだ生きている第一部は、1900年代であると考えられている。当時のイギリスは、ヴィクトリア女王が即位してから死去するまでの64年間を指す、ヴィクトリア朝(1837-1901)の終焉期に当たり、依然としてヴィクトリア朝的なイデオロギーが支配的であった。青木健氏はヴィクトリア朝の女性像について、「女性の役割が、息子・夫・父としての男性との関係において規定されており、娘・妻・母以外の役割は期待されていないということは、女性の使命と存在とは、家庭とのしばりの中でのみ意味を持つ相対的な存在であり、自立した存在ではないという考え方である」と述べている(375)。小説の中でラムジー夫人は、そのようなヴィクトリア朝的な良妻賢母そのものとして表象されている。夫人は妻として、自信を失くした夫を励まし、母として子どもたちの世話を行い、家庭に縛られながら、家庭を支えているのだ。

 そのような夫人は、娘たちにも自分と同じような人生を歩むことを望む。つまり「娘」の次は、結婚して「妻」になり、そして出産して「母」となることを期待しているのだ。夫人は、娘たちへの「母の再生産」の継承を強迫的に欲望する。

 

[Mrs. Ramsay] insist that she [Lily] must, Minta must, they all must marry, since in the whole world whatever laurels might be tossed to her (but Mrs. Ramsay cared not a fig for her painting), or triumphs won by her (probably Mrs. Ramsay had had her share of those), and here she saddened, darkened, and came back to her chair, there could be no disputing this: an unmarried woman (she lightly took her hand for a moment), an unmarried woman has missed the best of life. (To the Lighthouse, 56)

 

 娘たちは結婚しなければならない、と言い、「結婚しない女性は、人生最良のものを取り逃がしているのよ」と断定するこの夫人の言葉に現れているように、彼女にとって結婚して家庭に入ることは女性としての最高の幸せを意味している。つまり、ヴィクトリア朝的な女性像をなぞるように、「娘」から、「妻」や「母」へと段階を踏んでいくことこそが、女性の幸せであると信じているのだ。

 では、なぜ夫人はそのような欲望を強迫的に持ち続けるのだろうか。その理由は、彼女自身の以下の言葉から探ることができるかもしれない。

 

It flattered her, where she was most susceptible of flattery, to think how, wound about in their hearts, however long they lived she would be woven; and this, and this, and this, she thought, going upstairs, laughing, but affectionately, at the sofa on the landing (her mother's); at the rocking-chair (her father's); at the map of the Hebrides. All that would be revived again in the lives of Paul and Minta; "the Rayleys"— she tried the new name over; and she felt, with her hand on the nursery door, that community of feeling with other people which emotion gives as if the walls of partition had become so thin that practically (the feeling was one of relief and happiness) it was all one stream, and chairs, tables, maps, were hers, were theirs, it did not matter whose, and Paul and Minta would carry it on when she was dead. (To the lighthouse, 123)

 

 夫人はここで、自身の母のもの=踊り場のソファと、父のもの=揺り椅子とが、娘夫妻ポールとミンタの結婚の中に引き継がれていくと述べている。それを通じて、妻であり母である自分が、ふたりの結婚生活において必ず蘇ることを期待している。この夫人の言葉から、夫人が娘たちに「母の再生産」を強要するのは、夫婦愛の中に自分を生き続けさせようとする欲望によるものだと考えられる。

 ここで強調して確認しておきたいことは、テクストは一見して、夫人の欲望がすべて叶っているかのような振る舞いを見せることである。ポールは、ミンタへのプロポーズが成功したことについて「なぜか今日のことは、あの人がそう仕向けたことのように思える」と言い(145)、リリーも「まるで夫人には、いとも素朴にあっさりそう望むだけで、皆に呪文をかけてしまう力があるようだ」と述べている(190)。また、第一部での、明日は晴れるから灯台へ行けるはずだ、とジェイムズに告げる夫人の言葉は第一部の中では結局それは果たされぬまま終わるが、テクスト全体の構造を第一部=今日、第二部=真夜中、第三部=翌日と大きく捉えるならば、第三部においてジェイムズの灯台行きは達成されることから、最終的に夫人の言葉は真実となっている。このように、テクストは、まるで夫人が望んだことはすべて叶うかのように進行していくのである。

 しかし、本章において指摘したいのは、テクストは、表面上はそのように進行していながらも、水面下では夫人の言葉に抗うかのように、彼女の欲望である「母の再生産」を悉く拒絶していることである。しかもそれは、夫人がまだ生きていて、彼女を中心に家族が築き上げられていた第一部においても既に垣間見えているのである。最も顕著な箇所の指摘から始めたい。それは、ある奇妙な形式をもつ14章である。

 このテクストにおいて14章は不気味な存在である。章全体が括弧で括られており、まるでナラティヴ全体から隠蔽されているかのようになっているのだ。13章の末尾で夫人は「ナンシーも皆と一緒に行ったの?」とプルーに問う。その直後、括弧の中に隠蔽された14章が入り込み、それから「ええ」というプルーの答えから始まる15章へと続いていく。表面上は母が問い、娘がそれに答えるだけの単純な会話が、13章と15章の間で成立しており、物語は進んでいく。母と娘の会話におけるその僅かな間において、いったい何が描かれており、なぜそれがナラティヴから隠蔽される必要があるのだろうか。問題の14章は以下のように始まる。

 

(Certainly, Nancy had gone with them, since Minta Doyle had asked it with her dumb look, holding out her hand, as Nancy made off, after lunch, to her attic, to escape the horror of family life. She supposed she must go then. She did not want to go. She did not want to be drawn into it all. For as they walked along the road to the cliff Minta kept on taking her hand. Then she would let it go. Then she would take it again. What was it she wanted? Nancy asked herself. (To the Lighthouse, 81)

 

 この場面ではまず、なぜか家族といることに対して気づまりを感じたナンシーが、屋根裏部屋へと逃げ込もうとする。そのようなナンシーに対してミンタが手を差し出す。そのままふたりは手を繋ぎながら、崖に続く道を歩いていく。引用にある “family life” が意味しているのは、ラムジー夫人、すなわちヴィクトリア朝的母親が中心にいる家族である。そのような家族空間に気まずさを感じ、そこから逃げるように屋根裏部屋へと逃げ込むナンシーの姿は、自分と同じ道を歩むことを要求する母親から逃げる娘であると考えられる。ここに、ヴィクトリア朝的な母親像から逸脱する娘の姿が、隠されているのである。

 続けて指摘したいのは、ナンシーとミンタの関係性である。ナンシーは手を繋ぎながら、「(ミンタは)いったいどうしてほしいんだろう」(137)「ミンタは何を求めているんだろう?」(138)とミンタの欲望に思いを馳せる。そして彼女は、ミンタと手を繋いでいると「足下に広大な世界が広がる」(137)と述べ、それを「人生の風景」(138)と呼ぶ。さらにミンタが手を放すと、その風景は消え去っていってしまったと語る。ここに、ナンシーのミンタへのホモエロティックな感情を読みとることが可能ではないだろうか。異性愛体制の家族空間から逃げ出したナンシーの頭を占めているのはミンタの欲望を満たすことであり、さらに彼女にとっては、母ラムジー夫人の姿よりも、ミンタと手を繋いで見る幻想こそが、「人生の風景」なのである。彼女は、夫人が象徴する、夫ありきの妻や母になること以外の生き方、つまり女同士のホモセクシュアルな関係を夢見ていると考えられる。

 さらに、ナンシーの感情を裏付ける場面が、14章の後半にも現れる。ナンシーは、ポールがミンタにプロポーズをし、ふたりが婚約したであろう場面を目撃する。その直後に「ああ驚いた!何とそこでポールとミンタが抱き合っていたのだ、たぶんキスでもしていたのだろう。ナンシーはわけもなく腹が立ち、苛立ちを感じた」と記述されている(141)。ここに、ポールとの異性愛を選択したミンタに対するナンシーの激しい怒りが見られるのである。

 もうひとつ、14章で起きた重要な出来事について触れておきたい。それは、ミンタが祖母から貰ったブローチを浜辺でなくすことである。彼女は、祖母から娘へという、母娘関係の系譜を通じて渡されたブローチを、ポールからプロポーズを受けた直後に紛失するのだ。ポールと婚約し、妻になった瞬間に母娘関係を継承した象徴的なものを失うということは、ここで「母の再生産」が絶たれることの暗示だと捉えることができないだろうか。

 さらに興味深いのは、この出来事に対するナンシーの言葉である。

 

It was her [Minta’s] grandmother's brooch; she would rather have lost anything but that, and yet Nancy felt, it might be true that she minded losing her brooch, but she wasn't crying only for that. She was crying for something else. We might all sit down and cry, she felt. But she did not know what for. (To the Lighthouse, 85)

 

 ナンシーは、すすり泣くミンタを見ながら「ただそれ(ブローチ)だけのために彼女が泣きじゃくっているのではないような気がした。きっともっと別のことのために泣いているんだ」と考える。ではナンシー本人もわからない、その “something else” とはいったい何を指しているのだろうか。ミンタがブローチを失くす直前に起きたこととは、ポールとの婚約である。先述したナンシーの欲望を踏まえたうえでこのナンシーの言葉を解釈すると、ミンタは、望まないポールとの結婚=異性愛体制への参入こそを不幸と感じ、それに対して泣いていると考えられないだろうか。母の系譜を受け継いでいかなければならない娘の悲しみが、ブローチを紛失した涙の裏に隠されているのである。

 改めて確認するが、以上に指摘したふたつの場面はいずれも、14章の中の出来事である。ナンシーのホモセクシュアリティと祖母からのブローチを喪失するミンタという「母の再生産」に抗う「娘」たち(ミンタは夫人の子どもではないが、ここでの立場は「娘」である。)の様子が括弧に括られ、まるで物語から隠蔽されているように思えるのである。そして、娘から母への応答の間に、この章が挟まれていることを考えると、この隠蔽は母、つまりラムジー夫人に気づかれることのないように画策されたものだと推測できないだろうか。

 続いて、娘たちから見た母像という観点から、母の欲望が裏切られる様子について見ていきたい。

 

[T]hough to them all there was something in this of the essence of beauty, which called out the manliness in their girlish hearts, and made them, as they sat at table beneath their mother's eyes, honour her strange severity, her extreme courtesy, like a queen's raising from the mud to wash a beggar's dirty foot, when she admonished them so very severely about that wretched atheist who had chased them—or, speaking accurately, been invited to stay with them—in the Isle of Skye. (To the Lighthouse, 11)

 

 娘たちは母を見つめながら、上記のように考える。ここで注目したいのは “manliness” と “queen” という単語である。娘たちから見た夫人は、「乞食の汚れた足を泥から引き上げ、自ら足を洗ってあげている」(14)女王のようであり、さらにその光景は「少女たちの胸にある種の雄々しさを呼び起こす」(13)のである。先にも確認したが、第一部の物語的時間とその歴史性に注目すると “queen” は、ヴィクトリア女王を指していると推測される。

 ヴィクトリア時代は、産業革命によって政治や経済のあり方が大きく変動し、「改革の時代」とも定義される。その中期には、1851年のロンドン万国博覧会に代表されるように、イギリスが経済的にもっとも繁栄したとされ、まさに栄光の時代であった。そのようなイギリスの国内における繁栄と同時に、戦争と植民地開拓による世界への覇権拡大も進んだ。特に、植民地インドで現地人の兵士が起した「インド大反乱」(1857年-1859年)は、結果としてイギリスによるインドの直接支配の契機となり、1877年以降、ヴィクトリア女王がインド女帝を兼ねるようになった。イギリスという帝国の世界中への拡張を牽引していたのが、まさにヴィクトリア女王であったのである。

 溝口薫は、そのようなヴィクトリア女王の姿が同時代の女性たちにもたらした影響に関して、以下のように述べている。

 

 女王は最終的にはイギリス帝国主義の膨張とともに、帝国の隅々の臣民に慈愛を降り注ぐおおいなる母として帝国支配の象徴的道具としてまつりあげられてゆくが、面白いのは、そうした公領域の頂点にたつ家庭婦人というヴィクトリア女王の存在と表象は、そもそもドメスティック・イデオロギーが女性を縛り付けていた私的領域から脱出する夢を同時代の女性たちに促す役割も担ったらしいことだ。〔中略〕家庭婦人女王の表象が、その逆説を通じてフェミニズムが登場する次の時代への影響力のひとつとなったのである。(「書評」、131)

 

 家庭という私領域にいながら、公領域では男性たちのトップに君臨する女王の姿は、同時代の女性たちに「ヴィクトリア朝的な良妻賢母」以外の可能性を夢見させたのである。先の『灯台へ』の引用に戻ると、娘たちから見たラムジー夫人は、必ずしもヴィクトリア朝的な母のイメージだけに占められているのではないことがわかる。ここで夫人は、イギリス帝国、ひいては国外にまでその覇権を広げる “manliness” を兼ね備えたヴィクトリア女王と重ねられているのである。そして娘たちは、逆説的なことに、母の姿を見つめることで、自分のような人生を歩み「母の再生産」を継承してほしいという母の欲望を裏切りながら、「あれこれの男性の世話などに明け暮れず、パリあたりでもっと自由奔放に生きる夢」(13)にふけるのだ。この夢とは、溝口の言う「ドメスティック・イデオロギーが女性を縛り付けていた私的領域から脱出する夢」と一致する。皮肉にも母の欲望は、その姿を見つめる娘たちには正しく継承されていないのである。

 続いて第二部へと移行し、今度は「出産」つまり「母」になることに焦点をあてながら、またしても夫人の欲望が絶たれていく様を見ていきたい。第二部では、最もラムジー夫人の期待をうけていた長女プルーが、春の訪れとともに結婚する。その場面での春の表象が、以下である。

 

The spring without a leaf to toss, bare and bright like a virgin fierce in her chastity, scornful in her purity, was laid out on fields wide-eyed and watchful and entirely careless of what was done or thought by the beholders. (To the Lighthouse, 98)

 

 春を受けた代名詞が “she” であることや “like a virgin” と “purity” という言葉から、春はここで「娘」として表象されていると考えられる。ここで、明るい「春」と「娘」が重ねられ、女性にとっての幸せ=「結婚」の祝福とつながっているのだ。そして、夏が近づくと、プルーは子どもを授かり、今度は夏に向かう生命力のみなぎりと受胎とが重ねられている。プルーの結婚と受胎は「善は勝利し、幸福は行きわたり、秩序がすべてを支配する」(253)とあるように、まばゆい明るさと希望によって覆われている。

 しかし、この場面の段落の末尾において、そうした明るさにふさわしくない不穏な記述が見られる。

 

Moreover, softened and acquiescent, the spring with her bees humming and gnats dancing threw her cloak about her, veiled her eyes, averted her head, and among passing shadows and flights of small rain seemed to have taken upon her a knowledge of the sorrows of mankind. (To the Lighthouse, 98)

 

 ここでも「春」は “her” と擬人化されており、再び「娘」として表象されていると考えられるのだが、そのような「春」は、受胎の喜びと豊潤な生命力の希望にあふれたこの場面において「目をヴェールでおおって、何かから顔を背けるかのよう」(253)であり、「人間のさまざまな悲しみについて、いくばくかの知識を身につけたようにも思えた」(253)とされている。「春」=「娘」だけが、人々の喜びの中でただひとり、目を覆いながら人間の悲しみについての知識を得ているのである。自分自身の結婚そして受胎に対して周囲が喜ぶ中で、当の本人だけが、なにかを憂えた態度でいるのだ。その直後、プルーの死が突然に訪れる。

 

[Prue Ramsay died that summer in some illness connected with childbirth, which was indeed a tragedy, people said.] (To the Lighthouse, 98)

 

 まるで「春」=「娘」の不穏な予感が的中したかのように、プルーは母にはなれない。母になる直前で、それ=「出産」が原因となって亡くなるのである。さらに不気味なのは、その直後に「今や夏の暑さの盛りとなって……」(254)と夏の生き生きとした動植物の描写が続く。生命力がみなぎる頂点の季節「夏」、そして女性にとっての幸せの絶頂=「出産」において、プルーは突然に命を落とすのだ。ここでは、あまりにも残酷に「母の再生産」が途絶えるのである。

 「春」=「娘」だけが「結婚」や「出産」に喜ぶ周囲の人々の中で唯一憂鬱な態度を見せることと、「出産」の直前において、つまり女性としての幸せの絶頂を迎えようとした瞬間にその「娘」が亡くなること。これらふたつの不気味な場面と非常に親和性の高い問題系が存在する。それは、竹村和子の語る「母」をめぐる「娘」のメランコリーである。そして、この問題を探る中で、なぜ、テクストが「母の再生産」を奨励しつつ、水面下ではそれを拒絶するという二重の態度をとるのかについて、答えが浮かび上がってくるのだ。

 竹村は『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』の「あなたを忘れない」という章の中の「娘のメランコリー」と題した節において、ほかの3つの組み合わせ(父息子、父娘、母息子)には見られない特殊性をもつ母娘の関係性について説明している。本節において竹村は、フロイトのメランコリー論と、それをふまえたバトラーによる女児のメランコリー気質に関する問題を引用し、母を喪失した娘のメランコリーについてさらに論じていく。まず、バトラーの言う女児のメランコリー気質を、竹村の記述に沿って説明したい。近親姦の禁止によって、男児は性対象のみを移動(母からほかの女性へ)すればよいのに対して、女児は性対象(母)も性目標(女)も移動しなければならない。したがって、母を愛したことを覚えており、その喪失を嘆くことのできる男児とは異なり、性目標も移動させられた女児の愛の喪失は「その喪失を嘆くことすらできない根源的なもの」(174)となる。女児は、このあまりに悲痛な喪失の痛手を解決しようとして、母を愛したことそれ自体を忘れようとする。ここでフロイト的メランコリーの過程が生じる。つまり、喪失した母を自分の中に取り入れて、それを「自分の所与の属性とみなす」(174)メランコリー的な取り込み、体内化が行われるのである。女児は「女」の属性を体内化し、「自分のもともとの身体とみなすようになる」(174)。このようにして、自分が愛した対象は自分自身であるとすることで、母を喪失したこと、ひいては母を愛したこと自体なかったことにされるのである。

 このバトラーの議論に竹村が強調して付け加えるのは、女児が体内化するのは、「女」というカテゴリーではなく、「母」というカテゴリーだということである。彼女はその理由について、象徴界に「女」の位置は存在しないからだと説明する。「母」にならずに男を魅惑し続ける女は、大文字の《女》であり、象徴界の内部には存在しない。大文字の《女》は「欲望の収束点である快楽それ自体であって、むろんそれをもつことは到底ありえない」(177)のだ。竹村は以下のように続ける。

 

母にならない女は、いつまでも象徴界の閾にたたずむ者、性の自己同一化をいまだ に果たせないでいる未熟なもの、つまりは「娘」なのである。〔中略〕娘は、家族から出ようとしても、べつの家族に入らないかぎり、いまだに娘のままである。〔ヘテロ〕セクシストな性の体制が娘に用意したのが、この愛の堂々巡り、娘にかけられた抑鬱の投げ網である。(『愛について』、178)

 

 この聞き覚えのある言説はここで「〔ヘテロ〕セクシストな性の体制」と呼ばれているが、本章の冒頭で述べたヴィクトリア朝的な母親像をつくりだした言説とまさに共犯関係をもっていることがわかる。つまり、ヴィクトリア朝から現代にいたるまで根強く浸透する女の性の自己同一化に関するこのような言説によって、「娘」はメランコリーを抱えた存在であるとされているのである。

 また、本章の冒頭で夫人が強迫的に「母の再生産」を欲望する理由は、夫婦愛の中に自らを生き続けさせることであったと説明した。上記のフロイト、バトラー、竹村へと続く議論をふまえたうえで改めてそれを解釈すると、娘たちに自分をメランコリックに体内化させることによって、自分を死なない死者として生き続けさせたい、という「母」から「娘」への欲望であると考えることが可能である。

 では、このような娘のメランコリーは最終的にどのように終わりを迎えるのであろうか。そもそも、終わりを迎える可能性は存在するのだろうか。竹村はこの節の最後を、以下のように締めくくる。

 

 自己同一化――すなわち性的な自己同一化――が異性愛核家族の再生産の語彙で説明されるかぎり、「女」は、「娘」か「母」であるしかない。成熟した娘は、「母」を体内化し「母」になりえた女である。母との愛を忘却し、自分自身を「母」にかえ、その忘却のメランコリーを最後まで引き受ける女である。だから子を孕んだ女こそ、メランコリーの抑鬱に「もっとも暗く沈んでいる」者だ。受胎の喜びの言語にかき消されてはいるけれども。言葉を変えれば、娘はメランコリーの最たるところで子を産み、「母」になる。子を「産む」ことは彼女自身の「母」としての新しい生――再生――を意味し、抑鬱は喜びの言葉にすりかわっていく。だがそれは、新しいメランコリーの始まりを告げる再生なのである。(『愛について』、178) 

 

 ここでようやく、プルーの死の場面との不気味なまでの親和性が見えてくる。「子を孕んだ女こそ、メランコリーの抑鬱に『もっとも暗く沈んでいる』者」とは、まさに先ほど示したように、子を孕み、その新たな命に周囲が明るい希望に満ちあふれている場面において、ひとりなにかを憂えている「春」=「娘」=プルーの姿なのである。しかし、出産の喜びによって、そのメランコリーは抑圧されるにもかかわらず、プルーは出産の直前で亡くなってしまう。上記の議論をふまえると、これを、「母」になることへの拒絶、メランコリーに対する娘からの抵抗と見ることが可能ではないだろうか。つまりプルーは「メランコリーの最たるところで」その死をもって抵抗し、新たなメランコリーの始まりを防いだ「娘」であると言えるのである。

 以上の「娘」のメランコリーの議論をふまえると、テクストが「母の再生産」を奨励し続けながらも、水面下では拒絶する態度をもつ理由が、極めて鮮明に見えてくる。このテクストの態度とは、喪失の痛手に耐え切れず、愛する母を忘却したメランコリーを引き受け、次なるメランコリーの再生産に自らも加わるか、愛する母を忘れまいと、そうした体内化を拒絶し、とことんメランコリーに抵抗し続けるかという、身を引き裂かれるような選択に苛まれる「娘」の態度なのである。だから、表面的には愛する「母」の欲望=「母の再生産」が行われ続けていながら、細部にはそれへの拒絶、すなわちメランコリー化に対して必死の抵抗を試みる「娘」の姿が隠されていることがわかる。『灯台へ』のテクストが見せる両価的な態度は、このような「娘」の葛藤が痕跡として現れているのだ。

 しかしながら、竹村が言うように、象徴界に「女」は存在しない。そして現実的には、「母」になれない「娘」がずっと「娘」のままでいることもできない。結局、ナンシーとミンタの愛は成就せず、ミンタはポールと(破たんはするものの)結婚をする。ナンシーはといえば、第三部でラムジー氏らの灯台行きの準備を手伝い(彼らの昼食を作り、灯台へ何を持っていこうか思案する)、まるで夫人のような立ち位置にいる。最終的にふたりは「母」を体内化し、メランコリーを引き受ける選択をしたのである。一方で、もうひとつの選択、つまりメランコリーへの抵抗を示した長女プルーを待ち受けていたのは「死」であった。

 このように考えると、娘たちが生きていくためには、その必死の抵抗もむなしく、最終的にはメランコリーを引き受け、そして新たなメランコリーの再生=「母の再生産」に加担せざるをえないように思われる。そこからの逸脱、メランコリーからの脱却の道は閉ざされていると考えるしかないのだろうか。だが、それへの結論を導き出す前に、わたしたちはいま一度オーソドックスな見解に立ち返るべきである。本作品において、ラムジー夫人を最も慕い、その死を最も嘆き、その存在にあらゆる意味で苦しめられ続けた「娘」とは、これまで触れてこなかった画家リリー・ブリスコウにほかならないのだ。反復されるメランコリーから逸脱して生きていく道=第三の選択が存在する可能性を彼女に読み込んでみたいと思う。

 

<Primary sources>                                                           

Woolf, Virginia. To the Lighthouse. Ed. Stella McNichol. London: Penguin, 1992.

ヴァージニア・ウルフ灯台へ御輿哲也訳、岩波書店、2004年。]

 

<Secondary sources>

青木健「<家庭の天使>像と<ニュー・ウーマン>の狭間で――ヴィクトリア朝の女子教育論」『Seijo English Monographs』36号、2003年。

竹村和子『愛について――アイデンティティと欲望の政治学岩波書店、2002年。

溝口薫「川本静子・松村昌家編著『ヴィクトリア女王――ジェンダー・王権・表象』書評」、『女性学評論21巻』、2007年。

 

 

 

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文芸同人「プラトンプランクトン」

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