プラトンとプランクトン

「プラトンとプランクトン」メンバーによるいろとりどりな記事

論文 正しく恋に落ちないこと―佐々木倫子の「君の名は」

正しく恋に落ちないこと――佐々木倫子の「君の名は」 

 

                             しだゆい

 

家族の肖像 (花とゆめCOMICS)

家族の肖像 (花とゆめCOMICS)

 

 

 

 昨年、新海誠監督の『君の名は。』がおおいに流行した。このタイトルは、周知のとおり敗戦まもない1952年から放送されこちらも当時おおいに流行したというラジオドラマ『君の名は』を下敷きにしている。『君の名は』から『君の名は。』へ――これは京マチ子から今日マチ子へのそれにも匹敵するエポックメイキングな(知名度のうえでの)交代劇であったと思うが、ここではそのいずれとも隔たったところで、流行とは無縁にひっそりと著されたもう一つの「君の名は」を取り上げたい。それは『動物のお医者さん』で知られる漫画家・佐々木倫子の初期連作「忘却」シリーズのなかの一篇である。

 

 佐々木の「忘却」シリーズは、視力も記憶力も特に問題ないにもかかわらずなぜか人の顔を覚えるのが異様に苦手な高校生・黒田勝久を主人公とする各話読み切りのコメディ作品だ。当然ながらどのエピソードも勝久が誰かの顔を覚えられない、あるいは思い出せないことが話を動かすギミックとなっているのだが、ここで論じる「君の名は」は、この基本設定がもっともシンプルかつ効果的に用いられたシリーズきっての佳作であると思う。

 家族で山菜取りに来た勝久が愛犬・ルイと木の下で休んでいると、ふいに近くの茂みから物音がして大きなヒグマが現れる(舞台は北海道)。目を逸らすこともできず、今さら死んだふりもできず、かといって逃げれば追われるという膠着状態のさなか、突如カンシャク玉が爆発、砂埃の舞うなか何者かに手を引かれ勝久とルイはヒグマから逃げ出すことに成功する。助けてくれたのは見知らぬショートカットの少女。「もうだいじょうぶだと思うけどこれあげる」と予備のカンシャク玉を手渡し颯爽と去りかけるところを呼び止め、勝久が「君の名は…?」と尋ねると、彼女は少し考えたのち「…じゃあ一か月後にここで会うことにしましょう」と答えるのだった。

 この少女は名を浅羽莢子といい、実は勝久と同じ高校に通う同級生、しかもかねてより彼にほのかな恋心を抱いていた――「みんなは黒田くんのことをトンチンカンな人だと言うけれど/私はそれほどとも思わない」。目を閉じ、思わずほころぶ口許をしとやかにノートで隠しながらのモノローグでなければ恋しているとも察しがたい、きわめて絶妙な表現だ。とはいえ出会いの翌日さっそく校内で勝久と遭遇しかけた莢子が“一か月後の再会”という演出をぶちこわさぬよう身を隠す場面で、彼女は確かに「やっぱり恋愛には舞台効果っちゅうもんが重要なんだからして」と明言しているし、腐れ縁らしき友人・佳葉が彼女の期待に水を差せば「あの時はたしかに恋愛のはじまりみたいな雰囲気があった!」と言って食い下がる。かなり輪郭の定かな、意外にもふつうの片想いなのである。

 たとえば『動物のお医者さん』がそうであったように「忘却」シリーズにおいてもベタな色恋沙汰が描かれることはあまりない。勝久のワンテンポずれた物腰にはそもそも恋愛への関心自体を見出しにくいし、三本木というバディ(幼稚園以来の幼馴染で、人間関係はほぼ重複しているので勝久の覚えられない顔は基本的に彼が記憶している)とのズブズブな関係もその印象を念押ししているところがある。この二点は『動物』のハムテル(と二階堂)にも共通することだけれど、にもかかわらず――あるいはそれゆえに一層――私たちは彼らの描かれざる恋愛事情をめぐってついつい二次創作的な妄想をいだきがちであるようにも思われる。おそらくその理由の一つが、勝久もハムテルも作画上、美形と判断しうる余地を多分に残しているということだろう。こう何やら煮え切らない言い方になってしまうのは、佐々木作品においては女性も男性も基本的に美しく整った顔立ちで描かれるからにほかならない。もちろんこれはおおよそ少女漫画一般に認められる傾向で、仮にある人物の容姿が比較的冴えないとされる場合も、そのことはクセっ毛やそばかすなど副次的な特徴によって控えめに表象されるにとどまり、骨格や体形レベルで作品世界の標準的なボディデザインの型を逸脱することはおそらくあまりない。ただ、そのなかでも佐々木作品は容姿の差異を示す表徴がとりわけ徹底して希薄にされているのである。

 たとえば同シリーズ中の一篇「山田の猫」に「日本的美観からいって美しいとはいえない」という設定の女性が登場するのだが、彼女が(変わり者であることは明らかであるにせよ)美人でないことを姿そのものから読み取るのは難しい。周囲の人物の反応から判断するか、もしくはその奇抜なファッションセンスが、特定の社会において設定された一般的な美の基準からの逸脱をかろうじて視覚的に表示しているにすぎない。つまり佐々木の作品世界において人物の美醜は物語設定上の単なる取り決めとして、登場人物の顔や身体からは完全に外部化され、非本質化されているわけだ。実際「君の名は」の莢子についても、勝久は「かわいい」、佳葉は「十人並み」、本人は「そんなにブスではないと思うんだけど」というように作品内の評価は必ずしも一定せず、読者がその容姿をどう見るかはある程度、個々人に開かれている。ましてや容姿をめぐる評価が作品内でほとんど明示されることのない勝久が「格好いい」かどうかを画に基づいて決定することはまず不可能であり、翻っては「モテている雰囲気はないけれど、実は格好いいのではないか」という仮説を個人的な妄想の範囲内で展開することも可能となる。密かに推す、という甘美なスタンスを読者に許すのである。ここで先述の「みんなは黒田くんのことをトンチンカンな人だと言うけれど/私はそれほどとも思わない」という言葉を思い出すならば、この隠微で両義的な言い回しは、公式設定の保証を欠いたまま「実は…ではないか」という曖昧な予感を萌していた読者の心理をそのままなぞっているようにも読める。この意味で、莢子は一種メタ的な視点で勝久を慕っていると言えるのではないか。要するに彼女の登場が勝久の作品内の立ち位置に大きな変革をもたらすことはないのであって、それは明らかに冴えない主人公に訪れた僥倖というわけでもなければ、かといって彼がモテることの証明材料にもならないのである(そういえば新海誠の『君の名は。』では主人公・瀧を、三葉の言葉で「東京のイケメン男子」としてはっきりと定義していたが、そうした含みのなさは本作と非常に対照的だと思う)。莢子の恋は作品の世界観をなんら揺るがすことなく、彼女のときめきは妄想する私たちのときめきと実にたやすく重なりあうことになる。

 

 物語を読み進めよう。勝久との思いがけない遭遇を避けようとした莢子だが、間も悪く佳葉が声をかけてきたため彼の視界に入らざるをえなくなる。ところが莢子の顔を全く覚えていない勝久は当然のように彼女をスルー、さすがに衝撃を受ける莢子――「だってきのうのきょうで/仮にも私は命の恩人よ」。さらに追い打ちをかけるように、複数の知人から連続して名前を間違えられるという出来事も経て彼女は急速に自信を失いはじめる。「私は印象が薄いのかもしれない」「印象の薄い私と記憶力の悪い黒田くん/デートのたびに自己紹介してたりして」……それはそれで(メルヘンとして眺めるぶんには)素敵な気もするのだが、結局、莢子は約束の場所に行かないでおこうと決意してしまう。すでに夏休みに入っていて、二人が出会う機会はもうほかに残されていないにもかかわらず……。

 一方、勝久は勝久で、ヒグマから逃げ出す際に莢子がルイの名を呼んでいたことを思い出すなどあって、彼女が以前から自分を知る高校の同級生であることをなんとなく察しつつあった。三本木たちにも心当たりを尋ねつつ、しかし確証の得られぬまま約束の場所に赴くものの、莢子は来ない。日も暮れていよいよ諦めかけたそのとき「ごめんなさい、おそくなって」との声とともに現れたのは、なんと佳葉だった――泥沼の予感である。

 莢子は黒髪ショートカット、佳葉は腰まで伸びた巻き髪。さすがの勝久も第一印象で「ちがう」と感じる。しかしあのときは三つ編みにして頭にまいていたのだという佳葉の言いわけを受けて「ぼくのこの種の判断は8割がたはずれる/…ということはこの場合やはりこの人で「正しい」んだ」と、あっさり納得してしまうのだ。根深いコンプレックスに由来する自らへの疑いと諦めにより直観は否定され、判断は歪められる。まぎれもなく本作中もっとも切ない一幕だが、ここで目を引くのは「正しい」に付された鍵括弧である。文脈上、この“正しさ”は目の前の人物とあのとき自分を助けた少女との“合致”を基本的には意味していると思われる(この人で「合っている」という意味の「正しい」)。だが括弧による強調はこの語にもっと強い、ある種の倫理的なニュアンスを与えないだろうか――あたかも、あの日の少女に再会することが彼にとって一つの正義を含むかのように。

 さて佳葉をカンシャク玉の少女と認めることにした勝久はその後、彼女を自宅の庭に誘い二人でルイに水浴びをさせて遊ぶのだが、その「デート」はいかにも不本意に課せられた義務として描かれていた。途中ジュースを買いに行くと言って抜け出した勝久は渋い表情でこう呟く――「デートというのは疲れるものだなあ」「いやしかし労働があるからこそ休みがありがたいのだ/楽あれば苦あり/人生とはそういうものだ」。佳葉との語らいは勝久にとって労働、義にかなうべき務めにすぎないのである。それゆえ家族からガールフレンドができたことを祝われても彼は浮かない表情だ。「なにか釈然としない/どこかまちがってるような気がする」。どこか間違っている――つまり間違いの所在は少なからず曖昧なのであり、したがってこの間違いは単なる“人違い”などではなく、もっと漠然とした状況全体の過ちを示唆していることになる。たとえばあの日助けてくれたのは彼女であると自分が認めただけで、特にそれ以上の手続きなしに「GF(ガールフレンド)」と呼ばれる相手を得るに至るという、この奇妙にオートマティックな進展そのものに潜む不正を。

 しかし事態はもう少し複雑である。仮に状況そのものは不正であるとしても、あくまでも勝久自身は正しく義務を果たしていた。彼は自分を助けた者に対し正しい行いによって報いなければならないと考える。佳葉をガールフレンドとしてデートすることは、後述するように少なくとも佳葉という他者に対しては正しい応答の仕方なのである。問題は正しく応答すべき相手がほかにいるということ、つまりそれが間違った正しさであるということにほかならない。では本当の、正しい正しさとは何か――本作の面白さは、それが単にデートの相手を莢子へと修正することではないというところにある。

 

 莢子は勝久の家の前を通りかかったとき、彼と佳葉のデートを目撃していた。そして勝久が「休憩」のためジュースを買いに出た隙に佳葉を呼び出し「黒田くんのこと好きでもないくせに!」と非難する(それに対する佳葉の「そんなことわからないでしょう?」という返答もすこぶる味わい深いのだが、ここでは深入りしないでおこう)。怒りに震え「私だって黒田くんに会うわ!!!」と叫ぶ莢子、そして後日ついに二人は揃って勝久の前に現れ、競い合うように自分が本物だと主張し「黒田くんどっち!?」と決断を迫るのだ。

 莢子の登場によりさすがの勝久もどちらが本物かすぐに気づくのだが、なかなか答えを口にすることができない。なぜなら「一度佳葉さんを認めてしまった以上こちらに責任がないとはいえない/ましてどちらかを選ぶなんて」到底できないから。勝久の優しさと愚かさが典型的に示された一節だが、彼が逡巡しているうち莢子はふいに全てを諦めたような表情となり「私が嘘をついていたのよ」と言ってその場を去ってしまう。弁解のいとまもなく完全な悪者として残された佳葉、そして失意に沈んでゆく勝久……。

 ところで、ふだんは一緒に遊びに出かけるほどの友人である莢子に佳葉がこのような常軌を逸した意地悪をしたのには幼稚園時代の因縁があった。近所に住むケースケくんという男の子に自分たちのうちどちらと結婚したいかと迫ったところ、彼は莢子を選んだのである。そのことを根にもっているのだろうと指摘され「フン! べつに私は器量が劣ってるから負けたなんて思ってないわ」と強がる佳葉に対し「わかってるわよ/みんな佳葉を美人だと思ってるわよ/それでいいじゃない!」と答える莢子。ここまでくると莢子の圧倒的な器の大きさが際立ってくるが、それはともかくここで興味深いのは、佳葉が自らの容姿に対してもつこの確固たる自信である。先ほども述べたように、佐々木の作品においては登場人物が「美人」であるかどうかを単純に作画から読み取ることは難しく、言語化された周囲の評価や、あるいは服装や振る舞いにかろうじて示されるにすぎない。そのなかで佳葉は繰り返し自分の容姿を誇り、また「みんな美人だと思っている」という他者の証言まで取り付ける。要するに美しさが取り決めでしかない世界のなかで彼女はその取り決めを力ずくで作り上げてしまったのだ。そうなるともはや私たちは佳葉を一義的に「美人」と規定せざるを得なくなる。もっとも勝久は、80年代風のトサカを豊かに湛えたその華やかな髪型を「前髪が(記憶のなかの少女よりも)うっとうしいような気がする」と一蹴しているし、三本木たちに少女の特徴を説明する際には満面の笑みで「かわいい」と言っていた割に、目の前の佳葉の美しさにはほとんど心を動かしていないようだ。とはいえ彼の陥った状況を客観的に形式化するならばそれは「誰もが認める美女との交際」なのであり、そしてそのことこそが「どこかまちがってる」と感じられていたのである。

 美女=佳葉との交際の成就が侵犯したもの――それはまさしく私たちの妄想する自由にほかならない。具体的な恋愛事情を直接的には描かずそれをつねに潜在的なものに留めておきながら、格好よさの程度さえ読み手の想像に委ねるという作品の基本スタンスに対して、交際の成就はそこで与えられているはずの二次創作的妄想のポテンシャルを無効化してしまう。というより、ほとんど能動的に自らを「美人」としてはばからない佳葉の存在自体がそもそもそこに別種の法をもちこむ異分子なのだと言うべきかもしれない。佳葉が体現する異質な法とは「恋愛」のコードである。愛の告白等々の手続きを一切踏むことなく、また互いへの好意を宙づりにした状態で半ば自動的に恋愛関係を結ぶことは、それゆえコードの遵守という意味では「正しい」行いとなるだろう。だがそのコードは結局のところ異郷の法にすぎないのであり、したがって作品本来のコードに照らすならばその正しさはあくまでも間違った正しさでしかありえなかったのである。

 それに対して作品本来のコードを体現する存在が莢子だ。その証拠は物語の最後、勝久と莢子の再会のシーンに見出されるだろう。夏休みも終わるころ、ふと思いついて莢子が約束の場所を訪れてみると、そこには勝久がいる。彼は彼女に謝るためにたびたびその場所を訪れていたのだ。「あの時きみが本物だとわかったけれど言えなかった」「私こそ約束をすっぽかしてごめんなさい…」とひとしきり謝罪が交わされたのち、莢子は勝久に思いを告げる――ところがそのとき勝久は「えっ」と驚き「そういう方向に話が進んでいたとは/こ…これは喜ぶべきことだよな/信じられないが」と戸惑うのである。佳葉を当たり前のようにガールフレンドとして受け入れていたことを思えば、彼のこのぎこちなさはいかにも奇妙に映る。だがこの困惑こそ莢子への正しさと佳葉への正しさとの根本的な違いを証し立てているのではないだろうか。先にも述べたように莢子は、実は格好いいかもしれない勝久をめぐる私たちの妄想とも重なりあう一種メタ的な視点から勝久に恋をしていた。しかしこのことは同時に、莢子と勝久が作品の内部においてアクチュアルに交際を成就させることを予め禁じるものでもあるはずだ。だからこそ勝久は莢子の告白を予期しえなかったのであり、また実際にも禁止は厳しく適用される――その時点ですでに、莢子は父親の転勤にともなって夏のうちに北海道を去ることになっていたのだから。

 

 手紙書くねーと言って/浅羽莢子はハレバレと去っていった

 

 莢子の去り際は実に爽やかなもので、あたかも告白を遂げた瞬間に恋心そのものがほどけてしまったかのようでもある。二次創作的妄想の自由を体現する者として、彼女は恋人未満のまま姿を消すよう運命づけられていたのだろう。最後のコマでは、かつて「GF(ガールフレンド)」ができたことを言祝いでいた際と同じ笑顔で「よかったねペンフレンドができて」と言いつつ、家族が勝久を取り囲んでいる(勝久は腕にルイを抱き、目には涙を浮かべている)。これは彼と莢子とが決して遠距離の恋愛関係にはないことの冷徹な念押しであるようにも読めるが、何度も言うようにほかならぬこの勝久の傷心こそが、莢子あるいは来るべきほかの誰かとの関係を私たちの側の妄想の領域に委ね、そこに自由を保証しているのだ。それが勝久の選んだ正しい正しさだったのである(ここで再び新海誠作品との対照を試みるとすれば、構造的にはむしろ『君の名は。』よりもはるかに共通点の多い『言の葉の庭』を想起するべきだろう。結末において主人公と教師はまさにここで言う「ペンフレンド」となるわけだが、そこでは恋愛の余地が曖昧に残されているぶんむしろ生々しい破局が「現実」として示唆されているようにも感じられた)。

 

 実質はどこまでも仄かで、しかしあくまでも力強く「恋愛」を標榜しつつ、それでいて最後には風のように去ってしまう莢子の思いは確かに、作品世界の均衡と読者の妄想いずれにとってもあまりに都合よくチューニングされている。だが莢子の存在は(あるいは佳葉もそうかもしれないが)図式的に分析し解釈することの不可能な感性を構造の豊かな余白として携えている限り、決して抽象的な法ないしコードに還元されることはない。勝久に思いを告げるときの莢子の語りは「私はそれほどとも思わない」の奥ゆかしい屈託と響きあいながら、彼女と勝久の本質を美しく照らし出している――「私ね黒田くんの家の前を通ったことがあるのよ/ルイがものほしの柱のところにつながれていて/柱のまわりをぐるぐるまわって引き綱が短くなったところでころんで首輪にひっぱられていた/そこに黒田くんが出てきてアンパンでルイをひきもどそうとするんだけど/ルイはどうしても同じ方向にまわろうとするの/私それを見て黒田くんが好きになった」。

 人を好きになるというのは、たぶん本当はこういうことなのだと思う。

 

参考文献

佐々木倫子「君の名は」、『家族の肖像』、白泉社花とゆめCOMICS)、1985年。

 

 

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文芸同人「プラトンプランクトン」

HP http://plapla.holy.jp/

 

ぷらぷら読書会記録ーネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」

ぷらぷら読書会記録  2017年4月 ネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」(小竹由美子訳)

 

 

アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (新潮クレスト・ブックス)

アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

 今回の課題本はネイサン・イングランダー「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」。みんな大好き新潮クレストブックです。

 

 参加者満員。プレゼン担当は、ジョブホッパー竹田純氏と深沢レナ。

 ぷらぷら外国文学枠2人組よりお届けします。

 

 

1  ネイサン・イングランダーについてあれこれ

 

 イングランダーは1970年、アメリカ・ニューヨーク生まれのユダヤ人系米国人で、敬虔なユダヤ教徒の両親のもと、ユダヤ教正統派の町で育ちます。ユダヤ教の学校で高校まで教育を受けますが、アメリカに暮らしながら、あくまで自分をユダヤ人と感じて生きてきて、ホロコーストは常に身近な主題だったといいます。

 その後、ニューヨーク州立大学に入学。大学3年生のときにイスラエルに行き、信仰を捨てて本格的な執筆活動を始めます。アイオワ大学のライターズ・ワークショップでマリリン・ロビンソンに指導を受けたとのこと。1999年には初の短編集を出版(未邦訳)、2007年には初の長編を刊行(これも未邦訳)。2012年に『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』でフランク・オコナー国際短編賞を受賞。現在ブルックリン在住で、ニューヨーク大学で創作を教えているとのことです。

 

 

 『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』は、明らかにレイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』にちなんだタイトルとなっているのですが、夫婦二組という登場人物や、会話文の多用といった表面的な類似のほか、物語中なにか大きな事件が生じるわけではないのに、なにげない会話や態度だけで、それまでの関係性が修復不可能なほど崩れてしまう恐ろしさ、などがカーヴァー作品と繋がっているかと思われます。

 といっても、わかりやすくオマージュになってはおらず、イングランダー自身は

 

カーヴーの短編は十五年前に読んだきりだった。そして自分の短編として書き上がったとき、元のカーヴァーの短編は全部バラバラになっていた(Cultural Critic Interview)

 

と語っていて、強い繋がりなどは意図していないようです。

 

 イングランダーが仲良くしている作家には、エトガル・ケレット、ジョナサン・サフラン・フォアなどがいます。フォアが表紙に推薦文書いてますね。大学の時にイスラエルに行くというのも、自分のルーツを問題に取り上げるのも、なんとなくフォアと似ているかも。

 

 

 

 

 

2 閉ざされた空間と、次々と現れる隠されたものたち

 

 

あらすじ

 

 フロリダに住む主人公とデビーはユダヤ人夫婦。そこにデビーのユダヤ教学校時代のローレンと、夫のマークが来訪する。ローレンとマークはイスラエルに移住した正統派ユダヤ教徒だが、主人公とデビーはさほど宗教的ではない。対照的な二組の夫婦のぎこちない会話が始まる。

 マークは宗教なしに家族は持続するのか、と問うが、主人公はいやな気持ちになる。デビーとローレンが昔の思い出をきっかけに思い立ち、四人全員でマリファナを吸う。そこに大雨が降ってくる。マークは涙を流す。彼が今住んでいるイスラエスでは雨はまず降らない。四人は手をつないだまま庭で雨にうたれる。

 部屋に戻った彼らは「アンネ・フランクゲーム」を始める。もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるかを予測する遊びだ。—––連れ合いはユダヤ人である自分を通報するだろうか? 主人公とデビーは互いに大丈夫だと即答する。だが、ローレンは一瞬ためらってしまう。マークは私を突き出すかもしれない。そう思っていたことに自分で気づいてしまうのだ。その気持ちは、周囲の全員に伝わっていく。誰も何も言わぬまま、四人は食料貯蔵室でじっと向かい合う。

 

                 ***

 

 

 登場人物がちょっとややこしいのはイングランダーの特徴のようで、冒頭から固有名でいきなりはじまるので若干こんがらがりやすいです。簡単にまとめると、

 

 

デビー(デブ):僕の妻

トレヴァー(トレヴ):僕とデビーの息子

ローレン(ショーシャナ):デビーの旧友

マーク(イェルチャム):ショーシャナの夫

 

 

です。

 呼称が複数あり、語り手の「僕」が度々言い換えるので、それもこんがらがる一因となっています。

 

 ホロコーストを背景に扱っているのでタイトルだけみると一見シリアスな印象を抱きますが、読んでみると語り手の「僕」は口語的で、読者への呼びかけを行ったりして、読みやすく、コミカルともいえる。

 「僕」は、真面目なマークにいきなりヘビーな話をされてやや引きぎみ。好き嫌いのわかりやすい語り手です。そしてそのマークへの距離感を隠そうともせず、マークに対してはかたくなに「マーク」と呼び(一回だけイェルチャムと呼ぶ)、割と好意的に思えるようになったローレンのことは「ショーシャナ」と呼び改めるようになります。

 この複数の名前についてですが、カギカッコ内だけでなく、地の文で変化するというのはめずらしいとの意見もあがりました。たしかにあんまりみないかも。

 

 この物語では、4人のメンバーの立ち位置がかわったり、天候が変化し、外に出たり、また戻ってきたり、と、短い短編ながら場所の移動が多く描かれています。

 それは心情の変化もおなじで、「僕」は周りの3人に対し、不安感を抱いたり、親密になったり、嫌いになったり、好きになったりと感情がこまめに変化します。妻のチャラい過去を知ってしまってめちゃめちゃうろたえたりしてかわいいんですが、そういった細かな変化を、呼称の使い分けによって表しているのかもしれません。

 

 

 物理的な移動のきっかけになる小道具がマリファナですが、それが出てくるのは息子トレヴァーが洗濯物の中に隠したミントタブレットとなっていて、そのことを知りつつも「僕」に話さなかったデブに、「僕」は不安感を抱きます。

 思えば、この小説は「閉ざされた空間の内側から、隠されたものたちが次々と立ち現れてくる物語」とも考えられます。タブレットの箱の中から現れる息子の秘密、デヴの過去、地下の食料貯蔵室でのゲーム、はその典型ですが、ショーシャナとマークの外見にもわかりやすくあらわれている。

 ショーシャナは巨大なマリリン・モンロー風ブロンドかつらをかぶっていて、夫のマークは黒服を着て、大きな黒い帽子をかぶり、毛深いひげにおおわれ、露出しているのはわずかな部分だけ、と描写されています。重装備なマークは、規律・儀式でかためている外面と重なっているかと思われます。

 途中でマークは帽子をとり、ショーシャナはかつらをとる。それと、アンネ・フランクゲームによって二人の関係性のもろさが明らかになっていくという主軸とが、構造的にパラレルになっているようです。

 

 

 

 

 

3 アンネ・フランクゲーム、ぜひカップルでやってみてね

 

 

 タイトルにもなっている「アンネ・フランクゲーム」なのですが、これについては、ネイサン自身が妹と実際にやっていたことを語っています。

 

 

二十年前のことです。ちょうど僕が二十歳くらいの頃ですね。妹が誰かについてこう言ったのを覚えています。「彼は私たちを匿ってくれるけど、彼女は通報するでしょうね」。その言葉について二十年間考えてきました。彼女の言っていることは正しいなって、そのとき感覚的にわかったからです。こうした感覚がこの作品の終わりにも出てきます。一瞬で世界が変わってしまったら、僕を救うために本当に命をかけてくれるのは誰だかわかる。そして誰が通報するかもわかってるってね。

                       (The Beer Barrel Interview)

 

 

 

 もしもホロコーストが起きたら、だれが自分を匿ってくれるか? 

 その問いはだんだん深まり、やがて、自分たち夫婦間ではどうだろうか? という問いになっていきます。

 緊張感の流れる中、「僕」は匿ってくれるだというか、という問いに、デブは「もちろん、この人はそうしてくれるわ」と答える。一方、あなたたちもやってみて、といわれたマークは「そんなことをしてなんの意味があるんだ?」と嫌がりながらも、しぶしぶやりはじめる。しかし、これが悲惨な結末を生むことになります。

 

 

「で、僕は君を匿うかな?」彼は本気で訊ねる。そしてその日初めて、僕のデブがやるように手を伸ばすと、妻の手に自分の手を重ねる。「僕はそうするかな、ショーシ?」

 すると、ショーシャナが子供たちのことを考えているのがわかる、シナリオにはなかったのだが。彼女が想像することの一部を変えたのが見て取れる。それから一呼吸おいて、うん、と答えるが、笑ってはいない。うん、と彼女は答えるのだが、それは彼には僕たちに聞こえるのと同じように聞こえるらしく、彼は今や何度も何度も訊ねる。だけど僕はそうするよね? 君を匿うよね? たとえ生きるか死ぬかでも—––君は助かって、そうすることで僕だけが殺されても? 僕はそうするよね?

 ショーシャナは手を引っ込める。

 彼女はそれを口にしない。彼も口にしない。そして僕たち四人の誰も、口にできないことを言うつもりはない—––この妻は夫が自分を匿ってはくれないと思っているということを。どうすればいい? これからどういうことになるのだろう? だから僕たちはそんなふうにして突っ立っている、四人で、あの食料貯蔵室で抜き差しならなくなって。ドアを開けて、僕たちが閉じ込めたものを表に出すのが怖くて。 

 

 

 

 ショーシャナは、おそらくマークが匿ってくれないだろうということに気がついちゃいました。わあ、大変。さあ、別れるんでしょうかこの夫婦。その答えは出ないまま、小説は終わります。

 なぜそこで、匿わないであろう人物は4人のなかでマークだったのか、という疑問については、都甲幸治さんが以下のように述べています。

 

 

アンネ・フランクのゲームはマークへの痛烈な批判になっている。本当の危機のとき、宗教や伝統さえも役に立たない。妻は、夫を腹の底から信じることができてはいないし、夫婦の間に開いた深淵を埋めるための出来合いの方法なんて存在しない。 (『生き延びるための世界文学』)

 

 

 

 マークの原理主義的なものの考え方は、立場がかわってしまえば、危険なものになりうる。ここでは、あくまで宗教は表面的なもので、剥ぎ取られるかつらのようなものなんですね。そういう意味で、この話はユダヤ人だとかアメリカ人だとか特定の人種や宗教という服をかっぱらい、裸になった夫婦や友人といった普遍的なものにまで掘り下げています。

 レイモンド・カーヴァーの描く夫婦や家族というのも、労働者階級という設定を外しても、普遍的な人間同士の関係にまで踏み込むものでした。その点において、イングランダーとカーヴァーの作品は通底しているのかもしれません。

 

 イングランダーは、自分の描くものについてこのように述べています。

 

 

 

私が書くのは、寂しさやうれしさ、恋しく思う気持ち、孤独、希望、何かを失うこと……それだけです。そして感情を描写する時には、私の悲しさを書けばあなたもその悲しさが分かる、と考える。普遍性は私にはコントロールできるもので。なすべきは記憶の集積である現実を、ストーリーとして語ることだけです

                              (産経新聞

 

 

 

 イングランダーの作品には、固有名詞が多く、Twitterfacebookと言った現代の言葉が入ってくるのも特徴なのですが、そういったいわば期間・場所の限定的な言葉の奥に、ものすごく普遍的な物語が見えてくるようです。

 

 

 身近なものこそが不気味なものとなる——「見慣れた」ものや「親しんだ」ものこそが「不気味」となりうるのだ、というフロイトの概念をこの小説に当てはめてくれた子もいました。実は自分はぜんぜん家族のことを知らないのではないか、という不安は、家族だからこその恐怖ですよね。

 

 また、その「不気味なもの」が立ち上がるきっかけとなるのが、二組の夫婦どっちにおいても「子供」の存在である、という鋭い指摘も。本来つなげる存在である子供が、この小説においては、切断する役割を果たしているようです。

 

 

 

 

 

4 だって、彼らが僕たちを憎むから

 

 

 この短編集には8つの短編がおさめられていますが、二人の義姉妹からはじまる長い歴史を年代順に描いた「姉妹の丘」、ピープショーをめぐり現実と妄想がまざりあう「覗き見ショー」、イングランダー自身を思わせる語り手が彼女との関係の破綻と自分の家族について箇条書きで語った「母方の親族について僕が知っているすべてのこと」など、イングランダーはいろいろなスタイルで大抵ストレートに問題を打ち出してきます。

 

 

 なかでも、「キャンプ・サンダウン」は読んだ後いたたまれなくなりました。

 

 主人公は高齢者向けキャンプの管理をする中年の責任者。やや認知症ぎみの老人たちに日々振り回されています。新しくやってきたメンバーの一人がナチスの収容所の衛兵だと思い込んで被害妄想になっていくユダヤ人の老人たち。すれ違いざまにわざと「ハイル」と挨拶する、といった嫌がらせをしはじめます。最初は、注意してなんとかやめさせようとしていた主人公ですが、老人たちはエスカレートし、主人公が夜のプールにあわてて駆け出していったときにはもう手遅れになっている。主人公は呆然とたちつくし、8人の老人たちと並んで、歩いて行く亀を見つめる。

 

 

 悲惨ながらも、イングランダーの作品は、終わり方に余韻があって印象的です。

 

 

 ユダヤ人と反ユダヤ主義者の報復の問題を描いた「僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか」では、反ユダヤ主義者にいかに反撃するかと、少年たちが試行錯誤する様子が描かれます。若く軽い語り口をつかっているので、青春小説のような爽やかさがある一ぺん。最終的に報復をはたすのですが、実際に相手を傷つけた瞬間、どうしたらよいのかわからなくなってしまった少年たちの姿が描かれています。

 

 

 彼を見つめながら、自分は常に、打ち砕くよりは打ち砕かれるほうがましだと感じるだろう——僕の弱点だ—––と僕は悟った。そしてまた、僕たちを貫く低いざわめきは単なる神経過敏で、あたかも復讐には音が組み込まれてでもいるかのように、想像上の反響に敏感になっているだけなのだということもわかっていた。

 そのとき僕たちが実際に共有していた気持ちは単純だった。あの日僕たちといっしょに立っていた誰もが同じことを言うだろう。反ユダヤ主義者を足元に見ながら、僕たちは皆当惑に襲われた。僕たちは押しつぶされた少年を見つめてそこに立っていた。そしていつ駆け出せばいいのか、誰にもわからなかったのだ。

 

 

 

 

 ぷらぷらで唯一、世界一周放浪経験のあるすみえちゃんは、以前、アラブの人に「どうしてユダヤ人を憎むのか?」と聞いたところ、その答えは、"Because they hate us. "だったといいます。そりゃそうだよね。

 

 この短編集の最後に収められている、「若い寡婦たちには果物をただで」のお父さんのセリフがしみました。

 

 

「だけどなあ、息子よ、誰が死ぬべきか決めるだなんて、俺たちはいったい何様だよ?」

 

 

 

                            (文責 深沢レナ)

 

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ぷらぷら読書会記録 ー伊藤重夫『踊るミシン』

ぷらぷら読書会記録  2017年5月 ①伊藤重夫『踊るミシン』

 

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1 わかんない×わかんない×わかんない=でも面白い

 

 発表者は漫画研究者の猫もどき、猫石くん。ということで課題本は漫画です。伊藤重夫『踊るミシン』。

 

 わたしには聞いたことのない作家だったんですが、233頁もあるし、せっかくなので買おうと思ったら絶版なんですね。『踊るミシン』を復刊したい!というクラウドファンディングも立ち上がってました。

https://motion-gallery.net/projects/dancing-mr

 

 

 がんばれ。

 

 

 と、いうわけでみんなで読んでいったのですが、とにかく多かった感想は、1「わからない」、2「難しい」、3「でも面白い」

 あらすじにまとめるにはなかなか苦しい作品ですが、一応基本情報をまとめると、

 

 舞台は西神戸。街のすぐ近くには海がある。

 主人公の浪人生・田村は家出をして友達の長井と一緒に下宿をし、バンド活動をはじめる。高校の時から付き合いのある麗花がバンドのマネージャーになったりして、なんだかバンドは盛り上がる。

 田村はパスタを茹でたり、海水浴に行ったり、麗花とセックスしたり、入院している大家さんに会いに行ったりする。

 麗花は風呂場で踊ったり、海の堤防で踊ったり、田村とセックスをしたり、腕を切ったりする。

 背後では鳥の頭をした鳥男が空中浮遊してるし、いきなり押し入れの中にブラックホールが出現するけど、田村の日々はのんびり平和。

 バンドの演奏が無事成功したあと、田村はバンドをやめ、大家は死に、下宿は取り壊され、家に帰ることになる。THE END。

 

 そんな話です。

 

 一見、普通の地味な少年×若干メンヘラ少女による青春ストーリーにも思えるんですが、実際に読んでいくと、時間軸はバラバラだし、登場人物の会話は噛み合ってないし、解決されない話は多数あるし、単純にストーリーを追っていくのも大変です。ってかキャラクターがみんな似すぎだろ。見分けつかない。

 

 

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↑鳥男を見た、といいふらしたためにみんなに仲間はずれにされることになるかわいそうな脇役の少年(坊主)

 

 

 だいたい鳥男やブラックホールってなんなの? という、意味のわからない挿話もあります。

 冒頭、少年の前にいきなりあらわれる鳥男ですが、他の人には見えなかったり、写真にはうつらなかったり、鳥男が実際にいるのかいないのか、夢なのか現実なのかも明らかにされません。囚人服のような縞模様のパジャマを着ており、何かの象徴のように思えるけれど、出現するタイミングに一貫性がない。一瞬、踊る麗花の影が鳥になったりするのと関係があるのかどうかもわからない。

 

 

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↑鳥男(上)と、踊る麗花の影(下)

 

 

 また、押入れに突如出現したブラックホールは「THE END」と名付けられ、しかも、そのあとは全く話にでてこない。まさかの捨てエピソード。

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↑これがTHE END 

 

 最初、作品のタイトル横には、思わせぶりな「自殺のための5教程」という言葉があります。なにやら示唆的だな、とこちらは身構えて読み、実際作品中でもやたらと人が死ぬんですが、でも、そのつながりがよくわからない。自殺だったのかどうかもわからないし、彼らの死が関連しているのかも特に触れられることはない。さまざまな出来事の相互関係がはっきりせず、ひとつひとつの話が断絶している。

 そもそもタイトルの「ミシン」も全然でてきません。いったいなにがミシンだったのか? とにかく語られず、回収しづらいのです。

 

 あとがきで村上知彦はこう言います。

 

伊藤重夫はいつも唐突に語り始める。この「踊るミシン」はいくつもの断片的なシーンが、時間軸をジャンプして、自在に繋ぎ合わされて構成されている。そして、それらのいくつものシーンで登場人物たちは前後の脈略など意に介せず、あまりに唐突にその場に必要な言葉のみを、ストレートに語りはじめるため、読者ははじめのうちしばしば混乱に陥ることとなる。そして、その言葉の意味を読者が充分つかみきれずにいるうちに、場面はまた唐突に、ジャンプしてしまっているのだ。あるエピソードでは、何の説明もないまま結果だけが示され、あるエピソードにはいつまで待ってもその後どうなったかという結末がついに語られない。

(「陽のあたる場所『踊るミシン』を読む」)

 

 

 その、「何の説明もないまま」示されるのが、長井と麗花の死という結果なんでしょう。

 

 

 

2 伊藤重夫+キザ+センチメント=村上春樹

 

 「村上春樹作品と似ているけど似ていない」

 という指摘が読書会中かなり出ました。

 あとがきでも「中国行きのスロウボート」に言及されていますが、でも、春樹作品よりもっと脈略がなく、わかりにくい。

 村上春樹の初期作品では、あえて軽い事柄と重い事柄を並行して語ったり、人の死という重いものを重く描かないような工夫がなされてました。そういう「重いものを軽く描く」姿勢や、安西水丸佐々木マキを思わせるようなポップな絵柄や文体、神戸という舞台設定は類似しているのですが、でも春樹のキザでウェットな感じがない。

 というのも、春樹の初期作品では「黙説法」が用いられ、中心にある重要なことを語らない語りになっていて、一見、エピソードごとに断絶があるようにみえるのだけど、実はエピソードはつながっていて、けっこうわかりやすく集約できるし、読み手はセンチメンタルに感じられます。一方、『踊るミシン』の場合、思わせぶりでなく、「黙説法」という以前に話が断絶されまくっている。中心が隠されているというより、ほんとうに中心がなく、話が拡散している印象を受けます。

 

 最後のシーンで、猫に向かって田村がいう言葉、

 

「猫がセンチメンタルになるなよ」

「次の場所探せよ」

 

この一言に違いが表れているかと思います。

 

 

 猫のはなしが出てきたので、ここでついでに猫石くんが持ってきてくれた資料を引用すると、

 

 

「『踊るミシン』には、死を巡ってのテーマとさらに自殺が隠ゆとして横たわっているが、描かれた人物たちが表面的には極めて明るく、重苦しさを全く感じさせない。スッと読めば、ごくありふれた"青春叙情詩"なのだ。しかし、そぐだけ削ぎ落とし、選び抜いたコマで構成された伊藤さんの固有の描法に気づけば、描かれなかったコマとコマの間にパックリと虚無の空間が口を開けていることがわかる。その裂け目は、しっかりと描き込まれた垂水という街と海の明るい風景が一見覆い隠しているようでもある。」

糸野清明「日本文化の最前線13・劇画ニュー・ロマン」 (神戸新聞1987年1月10日)

 

 

 

 というのがありました。

 確かに死のにおいはずっとあるのですが、 どこか、あっけらかんとした明るさがあります。

 それは、かわいい絵柄というのもあるし、少女漫画的な浮遊感とも関わってくるのかもしれないです。

 急に地の文で独白や回想がはじまったり、「親父が来てたよ」という長井の言葉に対して田村がいきなり凧揚げの話をはじめる。その突拍子のなさから大島弓子作品との類似も挙げられたりしたのですが、少女漫画というのはなによりも、独自のコマ構成をつかうところに特徴があるのだそうです。

 

 夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』の11章「少女マンガのコマ構成」には、 

 

70年代以降の少女漫画によって開発され、部分的に他のジャンルの漫画にも使われるようになった独特のコマ構成、たとえばコマの余白=間白を強調したり、余白そのものをコマにしたり、コマを重ねたり包み込んだり、といったコマの基本原理ではとらえきれない描き方は、いずれもとても緩やかで軽い印象を与える。ほとんど時間が停止したような浮遊感を生み、読者の心理を誘導する機能が解除され、軽い伸びやかな解放感を感じさせることになる。

 

 ということが書かれています。

 

  この作品でも、謎のコマがちょくちょく出てくるのですが、いきなり挟み込まれる麗花が傘がを飛ばすコマは、時間が無にされているんだそう。吹き出しにセリフもないし。

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 3 遊びが多いよね

 唐突に描かれるコマであったり、エピソードであったり、ほかにもとにかく、作者の遊び心がいたるところで感じられます。

 

 たとえば、本来、黒い影というのは夜か昼か、過去か未来か、といった指標となるらしいのですが、そういうルールに関係なく、影がいきなり反転したりする。こういった「反転」はしょっちゅう描かれていて、麗花が浴室で手首を切るシーンでは、影が本体で、本体が影であるかのように動きます。また、田村と麗花がセックスをするとき、電気を消したにもかかわらず、背景の色がカラフルになっていたりするし、肌の色が突然かわったりもする。

 

 それと、さっきセリフのない吹き出しがありましたが、ほかにも、誰もいないところに吹き出しがあったりもするし、歌とかセリフとかがときどき描き文字にされてカワイイ。イマジナリーラインを平気で超えたり、位置がめちゃくちゃになったりもする。

 

  また、鳥男という存在は、つげ義春の『無能の人』からの、ゴジラの人形やうしろにいるゴリラは林静一『赤色エレジー』からの引用だそうです。他にも引用で遊んでいるところがあるのかもしれない。

 

 なんだか、浮遊感のあるフワフワしたマンガではあるのですが、背景のビル、建物、看板といったものはしっかり描かれているのも特徴的でした。しかも、田村たちが演奏するライブバーの「WETHER REPORT」という看板は、須磨に実在していたらしいです。

 それと、神戸で記者として働いていた経験のあるジョブホッパー竹田純さんによれば、村上春樹の出身地の芦屋といった東側と、明石市や姫路よりの西側は全然雰囲気が違うそうです。西側はよく事件の起こる陰惨な地区で、垂水区には、埋め立てが進みまくって団地マンションが建ちまくっていて、塩気のつよい風に当たり壁はハゲている。そういう「神戸漫画」として読めたとのこと。場所の存在感がありますね。

 

 

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★ほかに挙がったいろんなコメント★

 

・THE ENDっていうのは、可視化された物語の終焉では?

・落下のイメージが多々ありますよね。「私をここから落っことさないでよ」という麗花のセリフ、手首を伝う血、飛び降り自殺の噂、ベッドからの落下、落ちるぬいぐるみ、花火、階段などなどなど。

エドワード・ヤン『クーリンチェ 少年殺人事件』と似ているんじゃないですか?

・コマというのは1コマから成り立つのではない! 全体があるからこそ成り立つんです!
・春樹にも『ダンス・ダンス・ダンス』や『神の子どもたちはみな踊る』だとか「踊る」ということが描かれているけど、この時代における「踊る」ことの意味合いってなんなんだろう?

・大量の窓がこわい。

 

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 田村が麗花と彼女の家に行き、部屋の背景が描かれるとき、母親の顔を消した写真がちらと写ります。麗花はナイフを持ち歩いていたり、嘘ばっかりついたりするんだけど、ひたすらかわいい。精神的に危うい少女ってなんだか魅力を感じ、ま、せんか?

 わたしはとにかくここを描きたいがために、『踊るミシン』という作品は描かれたんじゃないかと、この見開きの一コマをみて、ひたすらぐっときました。

 

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                    (文責 深沢レナ)

 

 

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論文 メランコリーから逸脱して生きていく ―『灯台へ』における母子関係をめぐって①

メランコリーから逸脱して生きていく

―『灯台へ』における母子関係をめぐって①―

 

 

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

 

 

                   栁澤彩華

 

はじめに

 

 ヴァージニア・ウルフが、本作品『灯台へ』の執筆を通じて、自らの両親、特に母親に対する、長きに渡って解決されることがなかった感情の問題と対峙していたことは、とてもよく知られている事実だ。それに関する有名な記述が、彼女がA Sketch of the Pastの中で『灯台へ』について述べた以下の部分である。

 

   It is perfectly true that she obsessed me, in spite of the fact that she died when I was thirteen, until I was forty-four, […] I wrote the book [To the Lighthouse] very quickly; and when it was written, I ceased to be obsessed by my mother. I no longer hear her voice; I do not see her. (A Sketch of the Past, 82)

 

 ウルフは、13歳のときに実母ジュリア・スティーブンを亡くしており、その後、『灯台へ』を執筆した44歳になるまでのおよそ30年間、母に「とり憑かれていた」と述べている。そして作品を完成させるや否や、母の声は消え、姿を見ることもなくなったとの記述から、この小説を執筆することで、ウルフは母の支配からようやく逃れられたと考えられてきた。したがって、これまでこの小説は、ジュリアをラムジー夫人に、ウルフ自身を画家リリーに重ね合わせ、最終的にリリーが絵の完成を果たしたことで、長年の母の呪縛から解放されたと読まれるのがオーソドックスな見解であった。

 はじめに、『灯台へ』のあらすじを簡単に説明する。ラムジー一家は、スコットランドにあるスカイ島の別荘でひと夏を過ごしている。ラムジー氏と夫人には8人の子ども(アンドリュー、ジェイムズ、ジャスパー、ロジャー、プルー、ローズ、ナンシー、キャム)がいる。また、客人として、画家リリー・ブリスコウ、ラムジー氏の弟子のチャールズ・タンズリー、詩人オーガスタス・カーマイケルなどが氏の別荘を訪れている。第一部では、そのような彼らが過ごす平和な一日が描かれているが、第二部にあたる10年の時の経過の中で、家族のうちの3人が亡くなる。第三部で再び集結した家族(ラムジー氏、ジェイムズ、キャム)は、第一部で達成されなかった「灯台行き」を果たす。一方で、画家リリーもまた第一部では完成させられなかった絵画を、第三部で描きあげる。海と陸の場面がほとんど交互に描かれながら、リリーが絵を完成させた瞬間に物語は幕を閉じる。

 『灯台へ』がウルフにとって濃密な母との関係を表現した小説であることは間違いないだろう。ウルフ自身がそのように述べているからだけではなく、この小説は明らかに母ラムジー夫人を中心とした家族の物語となっているからである。しかし、より注意深く見ていくと、上述の見解ほど単純に済ませることが到底できなくなる。『灯台へ』は、同時代の精神分析的言説と不気味なほどの親和性をもった、母子関係を巡るおぞましい記憶の物語であり、母の喪失という普遍的な経験に対する、息子と娘それぞれの感情の物語であることが判明するのだ。

 

 

第一章 メラニー・クライン的「母子関係」

 

 1920年に出版されたThe Times Literary Supplementにおいて、ウルフは、「人間の脳の科学的な側面は、それ〔精神分析〕が興味深く、非常に多くのことを説明していると言う」が、「脳の芸術的な側面、それが退屈なもので、まったくもって重要な意義を持っていないと言う」と述べている(Woolf, Freudian Fiction, 199)。1920年代のウルフは、第一次世界大戦以後、イギリスにおける精神分析受容に重大な役割を果たした「ブルームズベリー・グループ」の中心にいながら、フロイト精神分析一般に対して否定的な態度を貫いていた。『灯台へ』において、ウルフがフロイト理論を意図的に織り込んでいると思われる描写があるが、それらはフロイトに対するシニカルな態度の現れである、と指摘されてきた。頻繁に例に挙げられる箇所を、ここで引用してみる。

 

Had there been an axe handy, a poker, or any weapon that would have gashed a hole in his father’s breast and killed him, there and then, James would have seized it. (To the Lighthouse, 8)

 

 第一部におけるこの冒頭の場面では、母ラムジー夫人とのふたりきりの空間に突然介入する父ラムジー氏に対して、殺してやりたい、と苛烈な憎悪を抱く息子ジェイムズの心的な幻想が描かれている。この、愛する母を所有する父に対して憎悪を抱く息子という構図は、フロイトエディプス・コンプレックス理論になぞらえた描写の典型であると読まれてきた。男児エディプス・コンプレックスとは、シェママとヴァンデルメルシュ編集の『精神分析事典』によると、早くに目覚めた男性性が、父の代わりとなって母親を所有したい欲望を喚起させるため、男児は父を欲望の障害物とみなして強烈な憎悪と敵意を抱く、という幼児期に起こる無意識の葛藤のことを指す。以上の定義を引用場面と並べてみると、ウルフがエディプス理論を念頭に置きながら、ジェイムズの心情を描いたと想像するのは至極自然であろう。したがって従来の研究では、ジェイムズの過剰なまでの父への憎悪は、フロイト並びに精神分析的言説から意図的に距離を保ちつつ、それらを揶揄する効果を持つウルフのフェミニスト的パロディであると読まれてきた。

 この指摘のとおり、引用場面にパロディ的なアイロニーが機能していることは明らかであろう。しかし、私たちはこれを結論めいたこととして読み終わってはならない。なぜなら、この場面には単なるフロイト的パロディには収斂されえない、記憶を巡る母子関係の複雑性と、ウルフ自らが意識の上では否定していた精神分析との相互関連性が見いだされるからである。「はじめに」ですでに触れたように、このテクストを貫く重要な主題とは、父子関係よりも濃密な「母」と子の関係なのである。

 そのためにはまず、第三部「灯台」に至るまでテクストを読み進めていきたい。第三部では、第二部における母ラムジー夫人の死後、父ラムジー氏、娘キャム、息子ジェイムズの三人がボートに乗り、第一部では果たせなかった灯台行きを実行する。ボート上の場面は、三人の直接的な会話は少なく、主に各々の内的独白で構成されているのだが、その中でジェイムズが幼少時代から抱いてきた自らの幻想について言及する箇所がある。

 

He [James] had always kept this old symbol of taking a knife and striking his father to the heart. Only now, as he grew older, and sat staring at his father in an impotent rage, it was not him, that old man reading, whom he wanted to kill, but it was the thing that descended on him—without his knowing it perhaps: that fierce sudden black-winged harpy, with its talons and its beak all cold and hard, that struck and struck at you (he could feel the beak on his bare legs, where it had struck when he was a child) and then made off, and there he was again, an old man, very sad, reading his book. (To the Lighthouse, 199-200)

 

 この場面において決定的に重要なことは、幼少期から抱いていた殺したいほどの憎悪の対象が、実は父ではなかったのではないか、という言及である。ジェイムズは、自分を攻撃してくる憎悪の対象を、黒い翼を持った怪鳥ハルピュイアに例えて説明している。ハルピュイアとは、胴体はハゲタカで強い翼と爪を持つ、ギリシャ神話に出てくる女面の怪物である。ここで、対象が女面の怪物として表象されていることとともに、第一部での夫人の服装が黒のドレスであることや、夫人が二羽の黒いカラスの喧嘩を笑いながら眺めている場面を想起したい。ジェイムズが過剰に恐れ、憎悪した怪鳥ハルピュイアとは、ほかでもない母親ラムジー夫人のイメージではないだろうか。つまり、ジェイムズ自身がかつて恐怖し、憎悪した対象は父ではなく、第一部において幸福と安心を与えられ、欲望の対象に位置していたはずの母であったという、フロイト的ナラティヴに徹底して矛盾した結論が導き出されるのだ。本節冒頭に引用した場面を単なるフロイト的パロディと断定し、ウルフの精神分析への批判的態度の顕在であると読み終えてしまうならば、この言及をどのように位置づけることができるだろうか。わたしたちは、フロイト的ナラティヴに一筋縄では回収されないこの重要な場面をふまえたうえで、幼年時代のジェイムズの幻想、つまり母子一体時の記憶について再解釈する必要性と向き合わなければならない。この議論を始めるにあたり、攻撃的な母とそれへの恐怖、不安という構図から瞬時に連想されるのは、母子関係を巡る幻想に焦点を当てた精神分析家メラニー・クラインである。

 メラニー・クライン(1882-1960)は、オーストリア出身の女性精神分析家で、児童分析を専門とし、フロイト以後の精神分析に多大な影響を与えた人物である。クラインの重要な仕事としてまず挙げるべきは、フロイト的ナラティヴの「父」介入以前の母子一体状態に焦点をあて、生後4~6か月における乳児が母との関係を中心に自らの心的世界を形成していく過程を説明した、2種類の態勢=ポジションである。それが、「妄想―分裂ポジション」と「抑うつ的ポジション」である。このふたつの段階に関して、クライン自身の最終的な結論としては、発達的には「妄想―分裂ポジション」が「抑うつ的ポジション」に先行するものとしている。その順序にしたがって、まずは「妄想―分裂ポジション」の定義から確認したい。

 「妄想―分裂ポジション」とは、最終的にはクラインが1946年に記述した「分裂的機制についての覚書」において確立された概念である。『精神分析事典』を参照すると、その定義は以下のとおりである。

 

最早期の発達段階に起源をもつ特有な対象関係と防衛機制、不安と情動のグループである。つまり部分対象関係であり、スプリッティングや投影同一視を中心にした原始的防衛機制をもち、自己の攻撃性が顕著で迫害不安が主な不安である。(181-182)

 

 基本的な前提として確認しておくべきことは、クライン理論においては、乳児にはすでに生まれつきサディズムが備わっており、それが対象に向かうということである。フロイトサディズムをリビドーの構成要素のひとつであると見なしていたのに対し、クラインは1932年の『児童の精神分析』において、サディズムは出生直後から乳児に賦与されている独立した本能(このサディズムについては、フロイトの死の本能論を採用している。)であるとした。定義で述べられている対象関係とは、母親との関係を指すのだが、乳児は母親の身体を全体的なものとして認知することができない。ゆえに破壊衝動はまず、母親の乳房に対する口愛的サディズムとして機能する。口愛的サディズムとは、乳児が自らに備わる破壊衝動を、原初的な対象である母親の乳房に向け、それを吸う行為(=授乳)として表出するサディズムを指す。その際、乳児は乳房もまた全体として認知できず、自分に満足を与える良い乳房と、欲求不満を引き起こす悪い乳房とに分裂させて認識する。乳児は良い乳房に「生の本能」を投影して愛を向け、口愛的サディズムによってそれを取り入れ、最初の「良い対象」を幻想の中で形成する。逆に悪い乳房に対しては、「死の本能」に基づく攻撃性、破壊的怒りを投影して、同様にそれを内部に取り込み、「悪い対象」を形成する。さらに、それらもまた同一のものであると認知できず、「良い対象」と「悪い対象」が別々の対象であると幻想の中でみなすのである。これが、「妄想―分裂ポジション」における「部分対象関係」である。

 この「妄想―分裂ポジション」において最も重要な概念であるのが、「投影同一視」である。それは、自己の過剰なサディズムによって自己が内側から破壊されないように、自己の破壊性を外部へ投影させて逃す心的な防衛機制のことを指す。『児童の精神分析』において、クラインは、死の本能を外界に逸らすことが、子どもの対象関係に対する関係に影響を与え、そして子どものサディズムの十分な発達を導くと述べている。サディズムが暴走し主体を破壊することから逃れ、「十分な発達」を促すためには、この「投影同一視」が必要不可欠となるのである。上述したように、自己のサディズムが投影される対象は、自分に満足を与えない「悪い対象」である。

 しかし、逆説的なことに、自分自身を守るために働く、この「投影同一視」こそが、乳児の心的世界を不安に満ちた世界へと導くのだ。「悪い対象」に対して、攻撃的な自己の一部を「投影同一視」するために、対象がさらに恐ろしい攻撃的なものとなり自己を破滅に導く不安(クラインはこれを「迫害不安」と呼ぶ)が生じるのである。その迫害不安について、クラインは以下のように述べている。

 

迫害的恐怖によって支配された敵意にみちた内的世界を投影する結果、敵意ある外的世界を―取り入れ‐取り戻す―ことになる。また反対に、ゆがんで敵意にみちた外的世界の取り入れは、敵意にみちた内的世界の投影を強化する。(「分裂的機制についての覚書」、15)

 

 乳児は、自らに備わる攻撃性を外部に投影することによって、破壊から自己を防衛する。だが、破壊性が投影された対象は、さらに恐ろしく攻撃的なものとなり、自己を破壊に導く不安を生じさせる。ゆえに乳児は、内部の攻撃性が投影された外部に対する憎悪とそれからの迫害不安を抱え込む。すなわち、「投影同一視」とは、自己を破壊から救う手段であると同時に、自己の怒りや破壊的な攻撃を外部に投影するがゆえに、攻撃的で威嚇的な敵に満ちた世界を創造してしまう心的過程を指す。クラインにおいて母子一体状態の乳児は、幸福に満たされているどころか、攻撃性とパラノイア的不安に支配された心的世界を有している。

 先ほど述べたように、「妄想―分裂ポジション」は1946年に完成した概念であるが、その初期の先駆的な考えは、ウルフによる『灯台へ』執筆と同時代の1920年代後半に見出すことができる。1929年の「芸術作品および創造的衝動に表れた幼児期不安状況」において、クラインは、自身の攻撃性とそれを向けた対象からの復讐への恐怖心の際限のない悪循環について以下のように述べている。

 

対象が取り入れられる時に、その対象にサディズムからのあらゆる武器を使って加えられる幼児の攻撃は、自分も外界および内在化された対象から同じ種類のサディズム攻撃を被るのではないか、という恐怖を呼び起こす。(256)

 

 ここでの「対象」とは、当然母親を指している。クラインは1929年の段階ですでに、乳児における激しいサディズムと攻撃する母という幻想を発見していたのだ。ここに、母を怪鳥ハルピュイアにたとえ、それに攻撃される恐怖を描いたウルフと、クラインの発見との不気味なまでの同時代性が浮かび上がる。

 再び『灯台へ』のジェイムズの上記の場面に戻ろう。以上のクライン理論をふまえるならば、母を過剰に恐れ、過剰に憎悪するジェイムズの心的世界を解釈することが可能となる。まず、ハルピュイアとは、「妄想―分裂ポジション」における分裂機制が作用して生み出された悪い母親を指している。ハルピュイアが自分を攻撃するという幻想は、「投影同一視」が機能した結果のパラノイア的不安である。つまり、自らの攻撃性を投影した母親が自分を襲うのではないか、という不安から、再度自己の攻撃性を外部=母に投影した結果、過剰なまでにその母を恐れるジェイムズの心的世界が説明可能となる。さらに興味深いことに、ハルピュイアの攻撃性とは、ジェイムズ自身の攻撃性が投影されたものであるから、ジェイムズが過剰に憎悪した対象の正体とは、父でも母でもなく、自らの破壊的な攻撃性の投影であるといえる。このように、『灯台へ』には、ウルフの意図にのみ着目していては決して語ることのできないクライン的なものとの相互関連性が発見される。

 さらに、このスキャンダラスな議論に、ひとつ新たな問題系をつけ加えたい。父への憎悪だと思っていたものは、母への憎悪であり、それもまた実際は、母との濃密な世界で乳児自らが生み出した幻想、自らの攻撃性の外部への投影であった。親子関係をめぐる二重にも三重にもひねられたテクストの記憶の構造が示唆するのは、再外傷化される母子関係のトラウマ性である。外傷とは、「神経症を決定的にする条件となるようにみえるような、主体にとって受け入れることのできない事件」(57)を指し、再外傷化とは、それが再び後になって行われ、主体に外傷を与えることを意味する。

 フロイトが生み出した精神分析的概念のひとつに、「事後性」という心的時間性がある。再び『精神分析事典』を引くと、「事後性」とは、「一定時点でのある体験、印象、記憶痕跡がそれ以後の時点で、新しい体験を得ることや心的な発達や成熟とともに、新しい意味や、新しい心的な作用、影響力を獲得する心的過程」(181)を意味する。この概念が否定しているのは、「主体の生活史に関する精神分析的思考をもっぱら過去から現在への影響のみに注目する直接的決定論に還元するという誤解」(182)であり、つまりフロイトが含意していたのは、「記憶痕跡の形をとって存在する素材は、新たなもろもろの条件によって、折にふれて再体制化され、書き換えを受ける」(182)という遡及性である。より詳細に定義を見ると、フロイトが言う「記憶痕跡の形をとって存在する素材」とは、「それが生きられた瞬間に意味文脈中に完全には統合され得なかったもの」(182)で、「新たなもろもろの条件」とは、「出来事や状況の経験、身体的成熟」(182)であるとされている。すなわち、「事後性」とは、意味が与えられず、痕跡としてしか存在しない過去のある体験が、成熟した現在の立場から新たな意味を与えられ、過去化される心的構造の時間制を指す。

 この文脈で引用個所を再び読むならば、ジェイムズにとって、第一部における外傷的な母子関係(ラカン象徴界以前の言語を持たない世界)の経験が、母ラムジー夫人を喪失した第二部、父ラムジー氏と和解する第三部を経る中で、事後的に解釈され、過去化されたと考えられる。母との記憶の痕跡とは、乳児のパラノイア的不安の対象である、クライン的な「去勢する母」の攻撃性の経験、つまりハルピュイアのくちばしがふくらはぎを突いた「痛み」であり、それは主体にとっての外傷的な経験としてしか過去化されない。第三部においてエディプス・コンプレックスを経て父と和解し、象徴界に参入、言語を獲得した(成熟した)ジェイムズは、言語表象不可能な母との濃密な空間での経験を、「痛み」として再外傷化しているのである。灯台行きを楽しみに待つジェイムズに対し、「晴れにはならんだろう」と言語で彼の期待を裏切り、傷つけた父に対し、母は第三部において怪物として徹底的にイメージ化され、幻想のレベルでジェイムズを襲う。怪物化された母のイメージが第三部になって初めて現れるのは、第一部での母との記憶を第三部において事後的に「再体制化」しているためである。言い換えれば、母との記憶とは表象不可能な世界での出来事であるため、事後的に意味づけることを通じてしか語られえないのである。ここにおいて、表面上はフロイト的ナラティヴに回収されていたジェイムズをめぐる親子関係に、いかにクライン的なものが渦巻いているのかがはっきりと読み取れる。

 しかし、ジェイムズの独白においてより注意深く読まなければならないのは、ハルピュイアの幻想はすぐに姿を消して、後には再び悲しげに本を読む父の姿だけが残されることである。第三部の成熟したジェイムズにとっては、クライン的な幻想、すなわち母との関係は一瞬頭をよぎって過去化されるだけで、すぐさま忘れ去られてしまう。父との和解の進行と並行して、母との関係は抑圧される。ここに、息子ジェイムズは母を喪失(このテクストにおいては二重の意味をもつ)したメランコリーを脱却する存在であることも示唆されている。この論点は第三章でより詳しく議論する。

 このようなテクストの事後性という観点から、改めて全体の構造を眺めると、過去=第一部と現在=第三部を接続する第二部は、単なる時間の経過ではなく、極めて特権的な役割を果たしている可能性が浮上する。わたしたちは、なぜ母との記憶は事後的に書き換えられなければならないのか、第二部ではいったい何が起こったのかという問いと向き合う必要がある。

 第二部「時はゆく」では、第一部と第三部をつなぐ10年の時間経過と出来事(戦争や家族の死)が散文詩的文体で語られている。第一部で家族が集っていた家が荒廃する様や、季節の循環とその中で自然が荒れ狂う描写が散りばめられており、不気味な破壊性が渦巻いている。中でも注目すべきは、以下の場面である。

 

There was the silent apparition of an ashen-coloured ship for instance, come, gone;

There was a purplish stain upon the bland surface of the sea as if something had boiled and bled, invisibly, beneath. This intrusion into a scene calculated to stir the most sublime reflections and lead to the most comfortable conclusions stayed their pacing. It was difficult blandly to overlook them; to abolish their significance in the landscape; to continue, as one walked by the sea, to marvel how beauty outside mirrored beauty within. (To the Lighthouse, 146)

 

 この灰色の船とは、言うまでもなく戦艦を示しており、『灯台へ』が1927年に執筆されたことをふまえるならば、第二部のこの場面は、戦争=第一次世界大戦を暗示していると言える。この戦争表象において、「紫色の染み」が血のように浮かんで見えると記述されている。ここでわたしたちは、紫という色に、ある特権的な意味があったことを思い起こさなければならない。それは、第一部で出現する「紫色の影」である。第一部において、画家リリー・ブリスコウは一枚の絵を描くのだが(第一部においては未完の絵)、その際、ラムジー夫人がジェイムズに本を読んでいるその姿=母子像は「紫色の影」とされていた。したがって、この場面を、戦争の中に母子像が血のように浮かびあがっている描写だと読み解くことは可能ではないだろうか。人間の破壊性の体現とも言える戦争と母子一体状態の乳児の心的世界との共通性ならば、すでにわたしたちは知っている。ここで再びクラインに回帰しなければならない。第二部に渦巻く破壊性(家の荒廃、空っぽ、戦争、割れる鏡)は、抑えきれない自己の破壊性を外界に投影し、敵意に満ちた世界を作り出す、攻撃性と不安に満ちた乳児の「妄想―分裂ポジション」の心的世界と重なるのである。

 この文脈で第二部の解釈をさらに深めるならば、決定的に重要なこととして、ふたりの母の死を指摘したい。ヴィクトリア朝的良妻賢母であるラムジー夫人と、その娘で、結婚直後に子を孕んだプルーの死である。母子一体時の記憶を第一部、エディプス・コンプレックスを経て父のもとへと移行を遂げる現在を第三部と見るならば、それらをつなぐ第二部で起きたこととは、母の死、母の喪失である。

 

[Mr. Ramsay, stumbling along a passage one dark morning, stretched his arms out, but Mrs. Ramsay having died rather suddenly the night before, his arms, though stretched out, remained empty.] (To the Lighthouse, 98)

 

[Prue Ramsay died that summer in some illness connected with childbirth, which was indeed a tragedy, people said.] (To the Lighthouse, 140)

 

 ふたりの母の死を考えるにあたって、まずはふたりの死の直後の場面に注目したい。先に引用した、戦争表象における「人間の外側にある自然の美が、いかに内なる精神の美を映し出しているか、などと感嘆し続けることは、どう考えても困難になってしまった。」という文章に続いて、ここで言及されているのは「鏡」の破壊である。

 

Impatient, despairing yet loth to go (for beauty offers her lures, has her consolations), to pace the beach was impossible; contemplation was unendurable; the mirror was broken. (To the Lighthouse, 146)

 

 「妄想―分裂ポジション」においては、外部の取り入れと内部の投影が相互作用する「投影同一視」が乳児の心的世界で作用していた。つまり、外部とは内部の表象であり、内部とは外部の表象であるため、両者は鏡で映し合わせたような関係性にあった。その「鏡」のモチーフが、第二部の母の死の直後において破壊されたことは、いったい何を意味するのであろうか。ここで、「妄想―分裂ポジション」の次に位置づけられているクラインのもうひとつのポジションである「抑うつ的ポジション」について見ていきたい。

 「抑うつ的ポジション」とは、「躁うつ状態の心因論に関する寄与」(1935)並びに「喪とその躁うつ状態との関係」(1940)において提唱された概念である。クラインは以下のように記述している。

 

「躁鬱状態の心因論に関する寄与」(1935)という論文の中で〔中略〕、私は、赤ん坊の体験する抑うつ感情はまさに離乳期やその前後に頂点に達する、と述べた。これが「抑うつ的態勢」(depressive position)と命名した赤ん坊の心の状態であり、メランコリーの起こり始めの状態であろう、と示唆した。哀惜の対象は母親の乳房であるが、幼児の心の中で乳房とミルクを意味するすべてのもの、すなわち愛情、善良さ、安全感などにわたる。このすべてが失われた、と赤ん坊には感じられるのである。しかも、母親の乳房に向けられた赤ん坊自身には、抑えることのできない貪欲で破壊的な空想と衝動のせいで失われた、と感じられるのである。(「喪とその躁うつ状態との関係」、124)

 

 離乳期やその前後になると乳児は、対象を全体として認知することができるようになるのだが、クラインによると、「対象が全体として愛されるようになるまでは、愛情対象の喪失が全体の喪失として感じられない」ために、「抑うつ的ポジション」においてはじめて、乳児は愛する対象の喪失と、それに伴うメランコリーを経験する。喪失の対象とは当然母であり、その契機は離乳であるとされている。さらに、この喪失経験について乳児は、自分自身のサディズムが母を破壊したと感じ、罪悪感に苛まれるのである。

 「鏡」の破壊の契機はふたりの母の死であった。この母の喪失を、これまで述べてきたように乳児の心的世界における離乳だとみなすならば、「鏡」の破壊が意味するのは、対象を部分的に認識していた「妄想―分裂ポジション」から、全体として認識可能となる「抑うつ的ポジション」への自己形成過程の推移であると考えられる。この「母殺し」によって、子においては、愛する対象を喪失したことによるメランコリーがはじまりを告げる。

 さらにクラインは、「罪悪感」に加えて「抑うつ的ポジション」におけるもうひとつの重要な特徴として、「償い」の感情を挙げている。この概念もまた「芸術作品および創造的衝動に表れた幼児期不安状況」(1929)において、『灯台へ』と同時代的に展開されていたことに着目しつつ、その定義を確認したい。

 

 ここにおいて新たな感情と内的状況が生じてくることになる。すなわち悪い対象としてよい対象に攻撃性を向けていたために、よい対象を傷つけたり死なせたのではないかという喪失感、絶望感、抑うつ、哀惜の感情であり、自分がそれをやってしまったという罪悪感や悔いである。〔中略〕乳児は自分が対象を傷つけたことを受け入れ、それを修復、再建しようと努める。ここに償いの感情が湧いてくる。(『精神分析事典』、480)

 

 上述したように、乳児は離乳によって母の喪失を経験するが、その際に「良い対象」すべてが失われたと感じ、抑うつ的な感情を抱く。さらに、その喪失は自らの破壊性がもたらしたものであると感じるために、罪悪感に苛まれる。そこで、喪失した対象を修復、再建し、償おうとする感情が湧いてくるのである。この償いの感情こそが、「愛におけるそしてまたすべての人間関係における基本的な要素」(クライン「愛、罪そして償い」、83)であるとされており、他者への思いやりや寛容、愛の情動の基盤となっている。また、クラインは、「償いをしたいという願望は、愛する人への関心とその死に対する恐れと密接に結びついているので、今や創造的建設的な形で現れてくる」(クライン「愛、罪そして償い」、113)と、償いと創造性の関連について述べている。

 では、「抑うつ的ポジション」における償いと創造性をめぐる議論と第二部はどのように接続することができるだろうか。第二部の後半とも言える、離乳=母の死の後のテクストを見てみよう。まず、自身の出版した詩集が世間に好評であったことについて、戦争が人々の詩への関心を高めた、というカーマイケル氏の発言がある。また、ミセス・マクナブが、荒廃したラムジー家を掃除し、再建する様子が記述されている。これらについてわたしたちは、前者を文化的創造、後者を物理的創造だと捉えることが可能ではないだろうか。第二部においては、破壊性とともに、喪失した母を修復し、償おうとする運動も駆動しており、両者はまさに乳児の「抑うつ的ポジション」の心的構造と一致している。破壊と喪失、そして償いによって形作られた第二部を経ることによって、物語は第三部=現在を迎えることができるのである。

 以上に述べたクラインの2つのポジションが非常に興味深いのは、その順序もまた、単純に直線的な時間性の上にはないことである。先にも述べたように、クラインは、最終的には「妄想―分裂ポジション」が「抑うつ的ポジション」に先行すると結論付けた。しかし、実際には以下のようにも記述している。

 

妄想―分裂ポジションと抑うつ的ポジションの間を行ったり来たりする変動は、常に生じているし正常な発達の一部分である。したがって、この2つの発達段階の間に

明確な境界線を引くことはできない。しかも前者から後者への移行は徐々に進行する過程であり、この2つのポジションにおける諸現象はしばらくの間ある範囲内で

混在し、相互作用しあう状態を続ける。(「分裂的機制についての覚書」、21)

 

 この引用より、生後4~6か月の乳児の心的世界は、「妄想―分裂ポジション」から「抑うつ的ポジション」への発達段階的な移行というよりはむしろ、それらのダイナミックな相互作用の働きによって形成されていることがわかる。このことを踏まえると、第二部とは、自らの暴力性の投影によって、外部に破壊的世界を生み出す「妄想―分裂ポジション」と、離乳=母の死の後、母を喪失した罪悪感とそれへの償いで満ちた「抑うつ的ポジション」が相互作用し続ける、乳児の心的構造の描写であると考えられる。第二部とは、破壊と償いの繰り返される相互作用によって、つまり憎しみと愛のダイナミズムに駆動されながら、「時はゆく」様子を描いている場面なのである。

 では、母を喪失したジェイムズの罪悪感と償いの感情は、テクストにどのように現れているのだろうか。第三部において、ジェイムズが母について回想する場面がある。

 

She alone spoke the truth; to her alone could he speak it. That was the source of her everlasting attraction for him, perhaps; she was a person to whom one could say what came into one's head. But all the time he thought of her, he was conscious of his father following his thought, surveying it, making it shiver and falter. At last he ceased to think. (To the Lighthouse, 203)

 

 この場面でジェイムズは、唯一真実を語り、自らの心を開くことのできる聖母的イメージとして母を思い出そうとしている。喪失した母を意識的に「思い出す」こともまた創造(想像)的修復であると捉えるならば、第三部におけるこの回想こそ、ジェイムズにとっての母への償いの一形態をなしているのではないだろうか。

 しかし、償いは成功しない。ジェイムズ自身が語っているように、母を思い出し、その喪失を償おうとすると、いつも父ラムジー氏の存在が同時に浮かびあがる。さらに父の存在は、ジェイムズの母への思いを震えさせ、揺さぶる力を持つ。そしてついに、ジェイムズは母について思考することを止めてしまうのである。これを、父の存在が母への償いを妨げていると解釈できないだろうか。第三部において、父との和解とエディプス的移行(母から父へ)が進行するが、それは父と同じ位置、つまり父と同じ性へのジェイムズの自己同一化を意味している。父に従い、父の性位置に自らもつくことによって、欲望の対象を母から別の対象へとずらし、母の喪失から生還することが可能となる。したがって、ジェイムズの償いは父への移行によって、不可能なものとなる。

 だが、ここにおいて本節冒頭で指摘したハルピュイアの幻想が再び重要な意味を持つ。修復しようとする母のイメージが、ハルピュイアとは正反対の優しく慈愛に満ちた母であることは、クライン的な真の母、すなわち攻撃する恐ろしい母像は、意識的に思い出すことが不可能であることを意味する。クライン的な母像は、無意識的に、不意打ち的に主体の頭をよぎるのだ。表面上は、ハルピュイアの幻想はほんの一瞬の出来事にすぎず、母との関係は再び抑圧され、ジェイムズは父への移行を遂げ、母を喪失したメランコリーを脱却する。しかし、その表面的なフロイト的ナラティヴに収斂されえない過剰、クライン的なこの不気味な残余に、償われず、思い出されることもなく、ただ再外傷化される母との関係が垣間見えてしまうのである。

 以上、このテクストを貫く母子関係と記憶の構造について、ウルフの意図したフロイト的ナラティヴの深奥に、いかにクライン的な母子関係との親和性が秘められているかが確認された。しかし、わたしたちは、本当に向き合わなければならない問題にはまだ到達できていない。本稿の冒頭で確認したように、本作品はウルフと母ジュリアの関係、つまり濃密な母娘関係について書かれたテクストであり、わたしたちは「娘」にこそ着目すべきなのである。

 

 

《一次文献》

ヴァージニア・ウルフ灯台へ御輿哲也訳、岩波書店、2004年。

 

《二次文献》

遠藤不比人『死の欲動モダニズム――イギリス戦間期の文学と精神分析慶應義塾大学出版会、2012年。

小此木啓吾精神分析事典』、岩崎学術出版社、2002年。

ヴァージニア・ウルフ「過去のスケッチ」『存在の瞬間』北野民夫、みすず書房、1983年。

ラニー・クライン『児童の精神分析小此木啓吾岩崎徹也訳、誠信書房、1932年。

___.「芸術作品および創造的衝動に表れた幼児期不安状況」(1929)『メラニー・クライン著作集1 子どもの心的発達』西園昌久・牛島定信訳、誠信書房、1983年。

___.「愛、罪そして償い」(1937)『メラニー・クライン著作集3 愛、罪そして償い』西園昌久・牛島定信訳、誠信書房、1983年。

___.「喪とその躁うつ状態との関係」(1940)『メラニー・クライン著作集3 愛、罪そして償い』西園昌久・牛島定信訳、誠信書房、1983年。

___.「分裂的機制についての覚書」(1946)『メラニー・クライン著作集4 妄想的・分

裂的世界』小此木啓吾岩崎徹也訳、誠信書房、1985年。

ロバート・D・ヒンシェルウッド著、衣笠隆幸総監訳『クライン派用語辞典』、誠信書房

2014年。

ロラン・シェママ/ベルナール・ヴァンデルメルシュ著、小出浩之訳『精神分析事典』、弘文堂、2002年。

 

論文 メランコリーから逸脱して生きていく ―『灯台へ』における母子関係をめぐって②

プラトンプランクトン2号」に掲載した栁澤彩華の力作、ヴァージニア・ウルフ灯台へ』論ネット公開! 一章は①をご参照ください。

 

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

Modern Classics To the Lighthouse (Penguin Modern Classics)

 

 

 

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メランコリーから逸脱して生きていく

―『灯台へ』における母子関係をめぐって②―

 

                 栁澤彩華

 

 

 

第二章 「母の再生産」の継承の否定

 

 本章ではまず、「母の欲望」に対するテクストの両価的な態度について指摘することから始めたい。ウルフの母への感情がアンビヴァレントなものであったのは周知の事実だが、それは本作品においては、母を慕いながらも彼女を裏切り続けるテクストの態度に現れている。具体的には、ラムジー夫人は、娘たちに「母の再生産」を継承させようとする強迫的な欲望を有しており、テクストは表面上それらを奨励する身振りを見せるのだが、その水面下ではそれを拒絶しているということである。

 母に焦点をあてて考えていくにあたり、まずラムジー夫人が作中でどのような女性として表象されているのかを見ていきたい。ラムジー夫人がまだ生きている第一部は、1900年代であると考えられている。当時のイギリスは、ヴィクトリア女王が即位してから死去するまでの64年間を指す、ヴィクトリア朝(1837-1901)の終焉期に当たり、依然としてヴィクトリア朝的なイデオロギーが支配的であった。青木健氏はヴィクトリア朝の女性像について、「女性の役割が、息子・夫・父としての男性との関係において規定されており、娘・妻・母以外の役割は期待されていないということは、女性の使命と存在とは、家庭とのしばりの中でのみ意味を持つ相対的な存在であり、自立した存在ではないという考え方である」と述べている(375)。小説の中でラムジー夫人は、そのようなヴィクトリア朝的な良妻賢母そのものとして表象されている。夫人は妻として、自信を失くした夫を励まし、母として子どもたちの世話を行い、家庭に縛られながら、家庭を支えているのだ。

 そのような夫人は、娘たちにも自分と同じような人生を歩むことを望む。つまり「娘」の次は、結婚して「妻」になり、そして出産して「母」となることを期待しているのだ。夫人は、娘たちへの「母の再生産」の継承を強迫的に欲望する。

 

[Mrs. Ramsay] insist that she [Lily] must, Minta must, they all must marry, since in the whole world whatever laurels might be tossed to her (but Mrs. Ramsay cared not a fig for her painting), or triumphs won by her (probably Mrs. Ramsay had had her share of those), and here she saddened, darkened, and came back to her chair, there could be no disputing this: an unmarried woman (she lightly took her hand for a moment), an unmarried woman has missed the best of life. (To the Lighthouse, 56)

 

 娘たちは結婚しなければならない、と言い、「結婚しない女性は、人生最良のものを取り逃がしているのよ」と断定するこの夫人の言葉に現れているように、彼女にとって結婚して家庭に入ることは女性としての最高の幸せを意味している。つまり、ヴィクトリア朝的な女性像をなぞるように、「娘」から、「妻」や「母」へと段階を踏んでいくことこそが、女性の幸せであると信じているのだ。

 では、なぜ夫人はそのような欲望を強迫的に持ち続けるのだろうか。その理由は、彼女自身の以下の言葉から探ることができるかもしれない。

 

It flattered her, where she was most susceptible of flattery, to think how, wound about in their hearts, however long they lived she would be woven; and this, and this, and this, she thought, going upstairs, laughing, but affectionately, at the sofa on the landing (her mother's); at the rocking-chair (her father's); at the map of the Hebrides. All that would be revived again in the lives of Paul and Minta; "the Rayleys"— she tried the new name over; and she felt, with her hand on the nursery door, that community of feeling with other people which emotion gives as if the walls of partition had become so thin that practically (the feeling was one of relief and happiness) it was all one stream, and chairs, tables, maps, were hers, were theirs, it did not matter whose, and Paul and Minta would carry it on when she was dead. (To the lighthouse, 123)

 

 夫人はここで、自身の母のもの=踊り場のソファと、父のもの=揺り椅子とが、娘夫妻ポールとミンタの結婚の中に引き継がれていくと述べている。それを通じて、妻であり母である自分が、ふたりの結婚生活において必ず蘇ることを期待している。この夫人の言葉から、夫人が娘たちに「母の再生産」を強要するのは、夫婦愛の中に自分を生き続けさせようとする欲望によるものだと考えられる。

 ここで強調して確認しておきたいことは、テクストは一見して、夫人の欲望がすべて叶っているかのような振る舞いを見せることである。ポールは、ミンタへのプロポーズが成功したことについて「なぜか今日のことは、あの人がそう仕向けたことのように思える」と言い(145)、リリーも「まるで夫人には、いとも素朴にあっさりそう望むだけで、皆に呪文をかけてしまう力があるようだ」と述べている(190)。また、第一部での、明日は晴れるから灯台へ行けるはずだ、とジェイムズに告げる夫人の言葉は第一部の中では結局それは果たされぬまま終わるが、テクスト全体の構造を第一部=今日、第二部=真夜中、第三部=翌日と大きく捉えるならば、第三部においてジェイムズの灯台行きは達成されることから、最終的に夫人の言葉は真実となっている。このように、テクストは、まるで夫人が望んだことはすべて叶うかのように進行していくのである。

 しかし、本章において指摘したいのは、テクストは、表面上はそのように進行していながらも、水面下では夫人の言葉に抗うかのように、彼女の欲望である「母の再生産」を悉く拒絶していることである。しかもそれは、夫人がまだ生きていて、彼女を中心に家族が築き上げられていた第一部においても既に垣間見えているのである。最も顕著な箇所の指摘から始めたい。それは、ある奇妙な形式をもつ14章である。

 このテクストにおいて14章は不気味な存在である。章全体が括弧で括られており、まるでナラティヴ全体から隠蔽されているかのようになっているのだ。13章の末尾で夫人は「ナンシーも皆と一緒に行ったの?」とプルーに問う。その直後、括弧の中に隠蔽された14章が入り込み、それから「ええ」というプルーの答えから始まる15章へと続いていく。表面上は母が問い、娘がそれに答えるだけの単純な会話が、13章と15章の間で成立しており、物語は進んでいく。母と娘の会話におけるその僅かな間において、いったい何が描かれており、なぜそれがナラティヴから隠蔽される必要があるのだろうか。問題の14章は以下のように始まる。

 

(Certainly, Nancy had gone with them, since Minta Doyle had asked it with her dumb look, holding out her hand, as Nancy made off, after lunch, to her attic, to escape the horror of family life. She supposed she must go then. She did not want to go. She did not want to be drawn into it all. For as they walked along the road to the cliff Minta kept on taking her hand. Then she would let it go. Then she would take it again. What was it she wanted? Nancy asked herself. (To the Lighthouse, 81)

 

 この場面ではまず、なぜか家族といることに対して気づまりを感じたナンシーが、屋根裏部屋へと逃げ込もうとする。そのようなナンシーに対してミンタが手を差し出す。そのままふたりは手を繋ぎながら、崖に続く道を歩いていく。引用にある “family life” が意味しているのは、ラムジー夫人、すなわちヴィクトリア朝的母親が中心にいる家族である。そのような家族空間に気まずさを感じ、そこから逃げるように屋根裏部屋へと逃げ込むナンシーの姿は、自分と同じ道を歩むことを要求する母親から逃げる娘であると考えられる。ここに、ヴィクトリア朝的な母親像から逸脱する娘の姿が、隠されているのである。

 続けて指摘したいのは、ナンシーとミンタの関係性である。ナンシーは手を繋ぎながら、「(ミンタは)いったいどうしてほしいんだろう」(137)「ミンタは何を求めているんだろう?」(138)とミンタの欲望に思いを馳せる。そして彼女は、ミンタと手を繋いでいると「足下に広大な世界が広がる」(137)と述べ、それを「人生の風景」(138)と呼ぶ。さらにミンタが手を放すと、その風景は消え去っていってしまったと語る。ここに、ナンシーのミンタへのホモエロティックな感情を読みとることが可能ではないだろうか。異性愛体制の家族空間から逃げ出したナンシーの頭を占めているのはミンタの欲望を満たすことであり、さらに彼女にとっては、母ラムジー夫人の姿よりも、ミンタと手を繋いで見る幻想こそが、「人生の風景」なのである。彼女は、夫人が象徴する、夫ありきの妻や母になること以外の生き方、つまり女同士のホモセクシュアルな関係を夢見ていると考えられる。

 さらに、ナンシーの感情を裏付ける場面が、14章の後半にも現れる。ナンシーは、ポールがミンタにプロポーズをし、ふたりが婚約したであろう場面を目撃する。その直後に「ああ驚いた!何とそこでポールとミンタが抱き合っていたのだ、たぶんキスでもしていたのだろう。ナンシーはわけもなく腹が立ち、苛立ちを感じた」と記述されている(141)。ここに、ポールとの異性愛を選択したミンタに対するナンシーの激しい怒りが見られるのである。

 もうひとつ、14章で起きた重要な出来事について触れておきたい。それは、ミンタが祖母から貰ったブローチを浜辺でなくすことである。彼女は、祖母から娘へという、母娘関係の系譜を通じて渡されたブローチを、ポールからプロポーズを受けた直後に紛失するのだ。ポールと婚約し、妻になった瞬間に母娘関係を継承した象徴的なものを失うということは、ここで「母の再生産」が絶たれることの暗示だと捉えることができないだろうか。

 さらに興味深いのは、この出来事に対するナンシーの言葉である。

 

It was her [Minta’s] grandmother's brooch; she would rather have lost anything but that, and yet Nancy felt, it might be true that she minded losing her brooch, but she wasn't crying only for that. She was crying for something else. We might all sit down and cry, she felt. But she did not know what for. (To the Lighthouse, 85)

 

 ナンシーは、すすり泣くミンタを見ながら「ただそれ(ブローチ)だけのために彼女が泣きじゃくっているのではないような気がした。きっともっと別のことのために泣いているんだ」と考える。ではナンシー本人もわからない、その “something else” とはいったい何を指しているのだろうか。ミンタがブローチを失くす直前に起きたこととは、ポールとの婚約である。先述したナンシーの欲望を踏まえたうえでこのナンシーの言葉を解釈すると、ミンタは、望まないポールとの結婚=異性愛体制への参入こそを不幸と感じ、それに対して泣いていると考えられないだろうか。母の系譜を受け継いでいかなければならない娘の悲しみが、ブローチを紛失した涙の裏に隠されているのである。

 改めて確認するが、以上に指摘したふたつの場面はいずれも、14章の中の出来事である。ナンシーのホモセクシュアリティと祖母からのブローチを喪失するミンタという「母の再生産」に抗う「娘」たち(ミンタは夫人の子どもではないが、ここでの立場は「娘」である。)の様子が括弧に括られ、まるで物語から隠蔽されているように思えるのである。そして、娘から母への応答の間に、この章が挟まれていることを考えると、この隠蔽は母、つまりラムジー夫人に気づかれることのないように画策されたものだと推測できないだろうか。

 続いて、娘たちから見た母像という観点から、母の欲望が裏切られる様子について見ていきたい。

 

[T]hough to them all there was something in this of the essence of beauty, which called out the manliness in their girlish hearts, and made them, as they sat at table beneath their mother's eyes, honour her strange severity, her extreme courtesy, like a queen's raising from the mud to wash a beggar's dirty foot, when she admonished them so very severely about that wretched atheist who had chased them—or, speaking accurately, been invited to stay with them—in the Isle of Skye. (To the Lighthouse, 11)

 

 娘たちは母を見つめながら、上記のように考える。ここで注目したいのは “manliness” と “queen” という単語である。娘たちから見た夫人は、「乞食の汚れた足を泥から引き上げ、自ら足を洗ってあげている」(14)女王のようであり、さらにその光景は「少女たちの胸にある種の雄々しさを呼び起こす」(13)のである。先にも確認したが、第一部の物語的時間とその歴史性に注目すると “queen” は、ヴィクトリア女王を指していると推測される。

 ヴィクトリア時代は、産業革命によって政治や経済のあり方が大きく変動し、「改革の時代」とも定義される。その中期には、1851年のロンドン万国博覧会に代表されるように、イギリスが経済的にもっとも繁栄したとされ、まさに栄光の時代であった。そのようなイギリスの国内における繁栄と同時に、戦争と植民地開拓による世界への覇権拡大も進んだ。特に、植民地インドで現地人の兵士が起した「インド大反乱」(1857年-1859年)は、結果としてイギリスによるインドの直接支配の契機となり、1877年以降、ヴィクトリア女王がインド女帝を兼ねるようになった。イギリスという帝国の世界中への拡張を牽引していたのが、まさにヴィクトリア女王であったのである。

 溝口薫は、そのようなヴィクトリア女王の姿が同時代の女性たちにもたらした影響に関して、以下のように述べている。

 

 女王は最終的にはイギリス帝国主義の膨張とともに、帝国の隅々の臣民に慈愛を降り注ぐおおいなる母として帝国支配の象徴的道具としてまつりあげられてゆくが、面白いのは、そうした公領域の頂点にたつ家庭婦人というヴィクトリア女王の存在と表象は、そもそもドメスティック・イデオロギーが女性を縛り付けていた私的領域から脱出する夢を同時代の女性たちに促す役割も担ったらしいことだ。〔中略〕家庭婦人女王の表象が、その逆説を通じてフェミニズムが登場する次の時代への影響力のひとつとなったのである。(「書評」、131)

 

 家庭という私領域にいながら、公領域では男性たちのトップに君臨する女王の姿は、同時代の女性たちに「ヴィクトリア朝的な良妻賢母」以外の可能性を夢見させたのである。先の『灯台へ』の引用に戻ると、娘たちから見たラムジー夫人は、必ずしもヴィクトリア朝的な母のイメージだけに占められているのではないことがわかる。ここで夫人は、イギリス帝国、ひいては国外にまでその覇権を広げる “manliness” を兼ね備えたヴィクトリア女王と重ねられているのである。そして娘たちは、逆説的なことに、母の姿を見つめることで、自分のような人生を歩み「母の再生産」を継承してほしいという母の欲望を裏切りながら、「あれこれの男性の世話などに明け暮れず、パリあたりでもっと自由奔放に生きる夢」(13)にふけるのだ。この夢とは、溝口の言う「ドメスティック・イデオロギーが女性を縛り付けていた私的領域から脱出する夢」と一致する。皮肉にも母の欲望は、その姿を見つめる娘たちには正しく継承されていないのである。

 続いて第二部へと移行し、今度は「出産」つまり「母」になることに焦点をあてながら、またしても夫人の欲望が絶たれていく様を見ていきたい。第二部では、最もラムジー夫人の期待をうけていた長女プルーが、春の訪れとともに結婚する。その場面での春の表象が、以下である。

 

The spring without a leaf to toss, bare and bright like a virgin fierce in her chastity, scornful in her purity, was laid out on fields wide-eyed and watchful and entirely careless of what was done or thought by the beholders. (To the Lighthouse, 98)

 

 春を受けた代名詞が “she” であることや “like a virgin” と “purity” という言葉から、春はここで「娘」として表象されていると考えられる。ここで、明るい「春」と「娘」が重ねられ、女性にとっての幸せ=「結婚」の祝福とつながっているのだ。そして、夏が近づくと、プルーは子どもを授かり、今度は夏に向かう生命力のみなぎりと受胎とが重ねられている。プルーの結婚と受胎は「善は勝利し、幸福は行きわたり、秩序がすべてを支配する」(253)とあるように、まばゆい明るさと希望によって覆われている。

 しかし、この場面の段落の末尾において、そうした明るさにふさわしくない不穏な記述が見られる。

 

Moreover, softened and acquiescent, the spring with her bees humming and gnats dancing threw her cloak about her, veiled her eyes, averted her head, and among passing shadows and flights of small rain seemed to have taken upon her a knowledge of the sorrows of mankind. (To the Lighthouse, 98)

 

 ここでも「春」は “her” と擬人化されており、再び「娘」として表象されていると考えられるのだが、そのような「春」は、受胎の喜びと豊潤な生命力の希望にあふれたこの場面において「目をヴェールでおおって、何かから顔を背けるかのよう」(253)であり、「人間のさまざまな悲しみについて、いくばくかの知識を身につけたようにも思えた」(253)とされている。「春」=「娘」だけが、人々の喜びの中でただひとり、目を覆いながら人間の悲しみについての知識を得ているのである。自分自身の結婚そして受胎に対して周囲が喜ぶ中で、当の本人だけが、なにかを憂えた態度でいるのだ。その直後、プルーの死が突然に訪れる。

 

[Prue Ramsay died that summer in some illness connected with childbirth, which was indeed a tragedy, people said.] (To the Lighthouse, 98)

 

 まるで「春」=「娘」の不穏な予感が的中したかのように、プルーは母にはなれない。母になる直前で、それ=「出産」が原因となって亡くなるのである。さらに不気味なのは、その直後に「今や夏の暑さの盛りとなって……」(254)と夏の生き生きとした動植物の描写が続く。生命力がみなぎる頂点の季節「夏」、そして女性にとっての幸せの絶頂=「出産」において、プルーは突然に命を落とすのだ。ここでは、あまりにも残酷に「母の再生産」が途絶えるのである。

 「春」=「娘」だけが「結婚」や「出産」に喜ぶ周囲の人々の中で唯一憂鬱な態度を見せることと、「出産」の直前において、つまり女性としての幸せの絶頂を迎えようとした瞬間にその「娘」が亡くなること。これらふたつの不気味な場面と非常に親和性の高い問題系が存在する。それは、竹村和子の語る「母」をめぐる「娘」のメランコリーである。そして、この問題を探る中で、なぜ、テクストが「母の再生産」を奨励しつつ、水面下ではそれを拒絶するという二重の態度をとるのかについて、答えが浮かび上がってくるのだ。

 竹村は『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』の「あなたを忘れない」という章の中の「娘のメランコリー」と題した節において、ほかの3つの組み合わせ(父息子、父娘、母息子)には見られない特殊性をもつ母娘の関係性について説明している。本節において竹村は、フロイトのメランコリー論と、それをふまえたバトラーによる女児のメランコリー気質に関する問題を引用し、母を喪失した娘のメランコリーについてさらに論じていく。まず、バトラーの言う女児のメランコリー気質を、竹村の記述に沿って説明したい。近親姦の禁止によって、男児は性対象のみを移動(母からほかの女性へ)すればよいのに対して、女児は性対象(母)も性目標(女)も移動しなければならない。したがって、母を愛したことを覚えており、その喪失を嘆くことのできる男児とは異なり、性目標も移動させられた女児の愛の喪失は「その喪失を嘆くことすらできない根源的なもの」(174)となる。女児は、このあまりに悲痛な喪失の痛手を解決しようとして、母を愛したことそれ自体を忘れようとする。ここでフロイト的メランコリーの過程が生じる。つまり、喪失した母を自分の中に取り入れて、それを「自分の所与の属性とみなす」(174)メランコリー的な取り込み、体内化が行われるのである。女児は「女」の属性を体内化し、「自分のもともとの身体とみなすようになる」(174)。このようにして、自分が愛した対象は自分自身であるとすることで、母を喪失したこと、ひいては母を愛したこと自体なかったことにされるのである。

 このバトラーの議論に竹村が強調して付け加えるのは、女児が体内化するのは、「女」というカテゴリーではなく、「母」というカテゴリーだということである。彼女はその理由について、象徴界に「女」の位置は存在しないからだと説明する。「母」にならずに男を魅惑し続ける女は、大文字の《女》であり、象徴界の内部には存在しない。大文字の《女》は「欲望の収束点である快楽それ自体であって、むろんそれをもつことは到底ありえない」(177)のだ。竹村は以下のように続ける。

 

母にならない女は、いつまでも象徴界の閾にたたずむ者、性の自己同一化をいまだ に果たせないでいる未熟なもの、つまりは「娘」なのである。〔中略〕娘は、家族から出ようとしても、べつの家族に入らないかぎり、いまだに娘のままである。〔ヘテロ〕セクシストな性の体制が娘に用意したのが、この愛の堂々巡り、娘にかけられた抑鬱の投げ網である。(『愛について』、178)

 

 この聞き覚えのある言説はここで「〔ヘテロ〕セクシストな性の体制」と呼ばれているが、本章の冒頭で述べたヴィクトリア朝的な母親像をつくりだした言説とまさに共犯関係をもっていることがわかる。つまり、ヴィクトリア朝から現代にいたるまで根強く浸透する女の性の自己同一化に関するこのような言説によって、「娘」はメランコリーを抱えた存在であるとされているのである。

 また、本章の冒頭で夫人が強迫的に「母の再生産」を欲望する理由は、夫婦愛の中に自らを生き続けさせることであったと説明した。上記のフロイト、バトラー、竹村へと続く議論をふまえたうえで改めてそれを解釈すると、娘たちに自分をメランコリックに体内化させることによって、自分を死なない死者として生き続けさせたい、という「母」から「娘」への欲望であると考えることが可能である。

 では、このような娘のメランコリーは最終的にどのように終わりを迎えるのであろうか。そもそも、終わりを迎える可能性は存在するのだろうか。竹村はこの節の最後を、以下のように締めくくる。

 

 自己同一化――すなわち性的な自己同一化――が異性愛核家族の再生産の語彙で説明されるかぎり、「女」は、「娘」か「母」であるしかない。成熟した娘は、「母」を体内化し「母」になりえた女である。母との愛を忘却し、自分自身を「母」にかえ、その忘却のメランコリーを最後まで引き受ける女である。だから子を孕んだ女こそ、メランコリーの抑鬱に「もっとも暗く沈んでいる」者だ。受胎の喜びの言語にかき消されてはいるけれども。言葉を変えれば、娘はメランコリーの最たるところで子を産み、「母」になる。子を「産む」ことは彼女自身の「母」としての新しい生――再生――を意味し、抑鬱は喜びの言葉にすりかわっていく。だがそれは、新しいメランコリーの始まりを告げる再生なのである。(『愛について』、178) 

 

 ここでようやく、プルーの死の場面との不気味なまでの親和性が見えてくる。「子を孕んだ女こそ、メランコリーの抑鬱に『もっとも暗く沈んでいる』者」とは、まさに先ほど示したように、子を孕み、その新たな命に周囲が明るい希望に満ちあふれている場面において、ひとりなにかを憂えている「春」=「娘」=プルーの姿なのである。しかし、出産の喜びによって、そのメランコリーは抑圧されるにもかかわらず、プルーは出産の直前で亡くなってしまう。上記の議論をふまえると、これを、「母」になることへの拒絶、メランコリーに対する娘からの抵抗と見ることが可能ではないだろうか。つまりプルーは「メランコリーの最たるところで」その死をもって抵抗し、新たなメランコリーの始まりを防いだ「娘」であると言えるのである。

 以上の「娘」のメランコリーの議論をふまえると、テクストが「母の再生産」を奨励し続けながらも、水面下では拒絶する態度をもつ理由が、極めて鮮明に見えてくる。このテクストの態度とは、喪失の痛手に耐え切れず、愛する母を忘却したメランコリーを引き受け、次なるメランコリーの再生産に自らも加わるか、愛する母を忘れまいと、そうした体内化を拒絶し、とことんメランコリーに抵抗し続けるかという、身を引き裂かれるような選択に苛まれる「娘」の態度なのである。だから、表面的には愛する「母」の欲望=「母の再生産」が行われ続けていながら、細部にはそれへの拒絶、すなわちメランコリー化に対して必死の抵抗を試みる「娘」の姿が隠されていることがわかる。『灯台へ』のテクストが見せる両価的な態度は、このような「娘」の葛藤が痕跡として現れているのだ。

 しかしながら、竹村が言うように、象徴界に「女」は存在しない。そして現実的には、「母」になれない「娘」がずっと「娘」のままでいることもできない。結局、ナンシーとミンタの愛は成就せず、ミンタはポールと(破たんはするものの)結婚をする。ナンシーはといえば、第三部でラムジー氏らの灯台行きの準備を手伝い(彼らの昼食を作り、灯台へ何を持っていこうか思案する)、まるで夫人のような立ち位置にいる。最終的にふたりは「母」を体内化し、メランコリーを引き受ける選択をしたのである。一方で、もうひとつの選択、つまりメランコリーへの抵抗を示した長女プルーを待ち受けていたのは「死」であった。

 このように考えると、娘たちが生きていくためには、その必死の抵抗もむなしく、最終的にはメランコリーを引き受け、そして新たなメランコリーの再生=「母の再生産」に加担せざるをえないように思われる。そこからの逸脱、メランコリーからの脱却の道は閉ざされていると考えるしかないのだろうか。だが、それへの結論を導き出す前に、わたしたちはいま一度オーソドックスな見解に立ち返るべきである。本作品において、ラムジー夫人を最も慕い、その死を最も嘆き、その存在にあらゆる意味で苦しめられ続けた「娘」とは、これまで触れてこなかった画家リリー・ブリスコウにほかならないのだ。反復されるメランコリーから逸脱して生きていく道=第三の選択が存在する可能性を彼女に読み込んでみたいと思う。

 

<Primary sources>                                                           

Woolf, Virginia. To the Lighthouse. Ed. Stella McNichol. London: Penguin, 1992.

ヴァージニア・ウルフ灯台へ御輿哲也訳、岩波書店、2004年。]

 

<Secondary sources>

青木健「<家庭の天使>像と<ニュー・ウーマン>の狭間で――ヴィクトリア朝の女子教育論」『Seijo English Monographs』36号、2003年。

竹村和子『愛について――アイデンティティと欲望の政治学岩波書店、2002年。

溝口薫「川本静子・松村昌家編著『ヴィクトリア女王――ジェンダー・王権・表象』書評」、『女性学評論21巻』、2007年。

 

 

 

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文芸同人「プラトンプランクトン」

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批評のような詩のような① 宮崎夏次系ー欠落のせかいを描くこと

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宮崎夏次系 ー欠落のせかいを描くこと        深沢レナ

 

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宮崎夏次系の描くせかいのコードは欠落であって だから背景もないし 空間には壁がないし 階段には柵がないし 床には厚みがない そこにいる人の名前がなぜ 武勇伝さんなのか大学さんなのか 理由もなく つながりもなく なぜかれらがいきなりプロポーズするのか 突然破裂するのか 展開は急激で 死は唐突におこるが ふざけきった背景やセリフでその重さを限りなくゼロにしてしまう

 

「ちょっとお前 首 吊ってきて」

と いわれても逆らいはしない トイレは砂漠のまんなかにポツンとあって 中で首を吊ろうとする男にOLがお茶を運んでくる 彼が遺書を書いているトイレの横で 竜田揚げを食べる彼女 日差しはつよく 暖かな空気 遺書は長すぎて書き終わらない

「遺書ナガスギワロタ」

                    (「昼休み」『変身のニュース』)

 

ここのせかいにあるものは 重さをもたないものばかりだ そもそもせかいじたいが細い線で描かれていて 空間はさむざむとしている 人物のからだは華奢で 表情は希薄で風がふくと 彼女たちが身につけているスカートはふくらんで 髪の毛は 広がる

せかいは軽いものにあふれていて それらはすぐに飛んでいってしまう 

傘 紙おむつ 花びら 紙ふぶき 発泡スチロール 干された洗濯物 ふくらみ 浮遊するものたち そして人間も飛ぶ

 

重さがあたえられていないから 相手に抵抗することもしない このせかいの人たちはそんな面倒くさいことはせず 他人と関わらず 感情をあらわにしない を あくまでつらぬこうとしている

 

  僕 昔から人と手 繋いだりすると ゲロ吐いちゃうんだ

           (「肉飯屋であなたと握手」『僕は問題ありません』)

 

かれらは人と触れ合うことを極度に嫌がる 閉じこもる 不登校になる ダンボールのなかにこもる 秘密基地に逃げる でもかれらは守られていない 重さがないから 壁がないから 家はすぐに壊され 基盤をもてない かれらは欠落し 孤立し 宙に浮いている

 

  他人事なんだ 全部が

  傍観役に 慣れすぎた せいできっと

  姉との距離感を 未だに はかりきれない

                       (『夕方までに帰るよ』)

 

欠落はくりかえす 重さのないせかいから 欠陥のかぞくから 軽すぎるかれらへ 母は息子を橋から落とし 父はリストラされて犬になる 冷めていく子どもたち 消したはずの感情がときに噴出をおこし そしてまたなにかを壊し それに気づかないまま 同じ道をくりかえす なんども なんども たどって あるのかないのかわからない まぼろしのような 家へ帰る

 

  あの完全な日々が戻らないなら

  博物館なんかに飾ってある

  大きな鹿の剥製の……

  目玉を布できれいにする

  清掃員になれればと思うが

  そんな仕事あるかは分からない

  それより……

  帰り道に後ろからじゃりじゃりと追ってくるのは 一体 誰なのか

  友人なのか 変質者か

  私が昔お墓に埋めてきた者か

  よく分からないが同じ道を

  何度も何度もなぞって

  家へ帰る              

                      (『夕方までに帰るよ』)

 

 

 

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

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僕は問題ありません (モーニングコミックス)

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夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない (モーニング KC)

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ホーリータウン (モーニング KC)

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ぷらぷら読書会記録ー黒田硫黄「わたしのせんせい」

ぷらぷら読書会記録 2017年6月 ①黒田硫黄「わたしのせんせい」

 

 黒船 (Cue comics)

黒田硫黄のスピード感

 

 発表者は漫画研究者で猫に似ている猫石くん、ということで、今回の課題本は漫画です、黒田硫黄「わたしのせんせい」(『黒船』Cue Comics)。

 

 やめるやめる詐欺をなかなかやめない宮崎駿も激押しの黒田硫黄ですが、黒田硫黄は以前、ぷらぷらの小説技術ゼミで「あさがお」「西遊記を読む」(どちらも『大王』収録)を読みまして大好評。今回の「わたしのせんせい」は、女子高生と高校教師(せんせい)との恋愛話かと思いきや、だんだん冷めてきたっぽいせんせいが「俺は宇宙人なんだ」とかいいはじめ、何言ってんだ、バカか、と思ってナメてたらマジで宇宙人だった、という予想外の展開に裏切られつつ、でもなんだかんだいって面白かった、との声が高い短編作品でした。

 

 登場人物がかなり多くて政治の話が絡んでくるのでややこしくなるのですが整頓すると、

 

 鈴木加油:高校生。せんせいと付き合っている。

 イトー加油と同じ学校に通っている高校生。鈴木家とイトー家は政敵。

 せんせい(野川):高校教師。のちに細胞を金属元素で置換される。宇宙へ。

 イトー(父):現職町長。ゴミ山放置で非難を浴び、降ろされそうになる。

 鈴木(父):県庁職員。町長選を狙っている。

 吉村:県会議員。

 

といったところになります。

 

 メインは加油、イトー、せんせいの3人。

 加油、という名前は文字どおり「給油する」という意味のほか、中国語では「がんばる・体当たりする・踏ん張る」といった意味もあるそうです。自転車を踏ん張ってこいでいるということのほか、実際に作品中で、ゴミ山に油をまいて燃やそうとすることからもこの名前が選ばれたのではないかと。

 

 「花を摘んでて遅れました」

と言って花をせんせいに手渡し見上げる加油のアップから始まり、彼女が自転車で坂をのぼるシーンは手塚治虫の『新宝島』をホーフツとさせる(らしい)。

 しょっぱなからしょっちゅう時間が飛ぶし、加油とせんせいの関係といった説明を省いてぐんぐん話が進んでいきます。

 この疾走感は、読者がページをめくることを念頭に入れて描かれていることから生じているそうな。人が増えると文字も増えてごちゃごちゃするのだけれども、吹き出しがコマからはみ出ているだとか、ページをめくることを急かすかのような描かれ方をしていたり、読者がページをめくる方向と進行方向を一致させたりして、作品のスピードを加速させているそうです。ふむふむ。

 けれども、途中、せんせいが来歴を語るシーンで時間が減速します。(ここでせんせいがぶち抜きになっているのは見る人が見れば萩尾望都だとピンとくるそうで。)それまでの速い時間の流れが、宙に浮かされる視線とともに遮断され、主人公の混乱が読者にも伝わるんだそうです。ふむふむふむ。

 

 

止まらない上下関係

 

 作品の中では「上下」というものが様々な形で現れます。

 せんせいと生徒という関係にしろ、娘と父親という関係にしろ。そしてそれは、見下ろす/見上げる構図となって繰り返し表象され続けます。

 

「上から神様みたいに見てたいんでしょ」(p38)

「みんな見てたんだ上から」(p41)

「先生はそうやって」「上から見ていたいのね!」(p49)

 

 これらはすべて加油のセリフですが、加油を見下ろすせんせいや父親にも上の存在が描かれています。町長となろうとする父には県長という存在があり、せんせいの上には(2つの目のようにみえる2つの丸い窓から見下ろす)宇宙人の存在がある。そして「町の上は県 県の上は国って操って」(p57)というイトーのセリフどおり、それらの上にはまだ上がいて、見下ろす/見上げる関係は限りなく続いていることが示唆されている。

 それらのヒエラルキーの底辺に位置しているのが加油加油の移動手段は自転車であり、それはせんせいや県長の使用する自動車、自動車を壊す宇宙船の図式の中でも最弱のものです。しょせん自転車。弱い弱い。

 底辺にいる加油はそれでもなんとか抗おうとします。 

 

「私はね! 先生と一緒にいたいのそんだけ」

「引きずりおろせないなら」「先生んとこいく」(p49-50)

 

 加油は基本的に「のぼろうとする者」であり、冒頭では坂をのぼり、家の中では階段をのぼります。加えて、加油という名前や、感情の激しやすい性格、ゴミに油をかけて火をつける行動から加油には「火」の性質が与えられているんだろーかと思うのですが、火というものも上へのぼるものであり、加油の燃やしたゴミ山からは煙がたちのぼることからも、加油の「上へ!」性が示されている。

 けれどもそんな簡単に上にいけるわけはない! 彼女は「私たちが自分で決めたことなんてなんにもな」(p45)と父に言いかけて追い出されます。その閉塞感は、家の扉や、学校の屋上の柵、加油の着ているボーダー柄の服などにも表されています。

 

 そういった閉じ込める「柵」の表象と対になっているものが「道」の表象ではないか、と。

 せんせいは、まだ若い加油に、進路や将来のことをたびたび口にし、未来のない自分とは違うのだと教え諭します。加油は反抗しますが、それは二人の使う乗り物からも明らか。自動車が壊された先生は、必然的に道を失い宇宙に帰るしかなくなりますが、自転車を交換し、さらには新しい自転車を手にいれる加油は、自分で道を進み続けることできる。

 作品のラストシーンは、思い切り体重をかけながら自転車をこぐ加油の姿。冒頭、車で道を走っていくせんせいと、同じ構図の道で自転車をこいで走ってゆく加油。道を閉ざされたせんせいと、道が開かれている加油と読めるのか、それとも、加油もせんせいの反復に過ぎないのか。加油は空を見上げて、答えは開かれたまま物語は終わります。

 曇天。

 

 

右ページ右上は俺がやるから空けておけ

 

 また、自転車は単なる移動手段としての枠を超えているという意見もありました。自転車は加油の感情の表れとともにあるのではないか、と。たしかに、加油がせんせいから別れ話を告げられている時に、雨に打たれる自転車がさりげなく描写されています。

 

 そういうさりげなく悲しいシーンもあるんですが、全然ウェットじゃないんですよね。と、いうのも決めゼリフを小さいコマにしたり、どうでもいいセリフで大きなコマを使ったりするからか、感傷的な絵にならない。ドライ。

 加油が火をつける時にせんせいがいうのが「八百屋お七か おまえは!」って。大事な時に言うセリフかお前。っていうか宇宙人なのによくそんなの知ってんなお前。

 

 あといくつか挙がった点。

 

 加油は自転車をこぎながら歌をうたっているんですが、それは細野晴臣作詞作曲の「終りの季節」で、「窓から 招き入れると」というのは窓からみえるせんせい、「終りの季節」とは、加油とせんせいの関係のことにもなっているようです。

 

 作品の中で、加油の表情がくるくると変わる、との指摘もでました。言われてみれば冒頭の加油は高校生にはみえない。超幼くみえる。けれども(おそらくカーセックスをした後)パンツを履いている加油は艶っぽくみえますね。

 

 あと、細かいところだと、手を引っ張ったり、転んだり、と同じモチーフが反復されています。「汚いぞ」というイトーのセリフは、コマの位置まで同じ。右ページ右上は「イトー」の独壇場!

 

 

黒田硫黄あるある★

・コマが詰まってる。字が多い。

加油が足をくじくシーンなど、いきなりコマが縦になったりする。

・セリフ使いがおかしい。たとえば「俺はさ 居づらくなるよ かもなあ」とか。

・好きな人物が遠くに行ってしまう、という話は黒田硫黄作品に多いそうです。

黒田硫黄の描く女の子ってほんとかわいいよね。

・前回やった伊藤重夫の「踊るミシン」の女の子もかわいかったよね。

・そういう漫画の女の子たちのかわいさというのは、彼女たちが「動こう」としているから、じゃない?

・ってかゴミの中に人っぽいのいない?

・ってかこれ、ウルトラマンじゃない?

・あーお腹減った。ジョナサンいこ。

・ジョナサンいこ。

 

などなど、雨の中、初参加の方も加え、とても充実した読書会となりました。ではでは。

 

 

                           (文責 深沢レナ)

 

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